チャーバハール 発音 (ペルシア語: چابهار, バローチー語: چاھبار; 意味は「4つの泉」、旧称はバンダル・バヘシュティー)は、イラン南東部のスィースターン・バルーチェスターン州南東部のチャーバハール郡の郡都。 2016年9月24日の人口は10万6739人。 オマーン湾に面する経済特区で、同国最南端の都市でもある。
紀元前2500年頃、近郊に「ティース」という漁村が有った。
紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世の遠征によって占領された。
歴史家のビールーニーによると、ティスはインドの沿岸部との貿易を行っていた[1][2]。
1188年、アフダルッディーン・アブー・ハーミド・ケルマーニーは著書の中で、ティスの商業と貿易について述べた。
1507年、ポルトガル王国の征服者であるアフォンソ・デ・アルブケルケがオマーン湾に侵入し、ティスとチャーバハールを占領した。
1621年、ポルトガル王国が撤退した。
1970年頃、パフラヴィー朝第2代皇帝のモハンマド・レザー・パフラヴィーが、チャーバハールに大規模な港を建設すると宣言した。 イランをインド洋の支配者とするために、近代的な海軍・空軍基地が建設された。 この計画は外国からの投資を多く呼び込み、特にアメリカ合衆国が目立った。
1979年にイラン革命が起こると、外国企業は計画から撤退し、建設聖戦大臣に繋がりを持つ国営企業が引き継いだ。
1980年にイラン・イラク戦争が始まると、ホルムズ海峡の治安が悪化し、ペルシャ湾に船が入りにくくなった。 そのため、海峡の外(東)に位置し、同国最東端のチャーバハールの物流・戦略的重要性が増した。
1980年代に、政府は新たに「東軸開発計画」を発表し、チャーバハールを東部の成長の中心にしようと考えた。
1992年、チャーバハール自由貿易産業地区が設置された。
2014年、インドはイランへの経済制裁として、チャーバハール港への8500万$の援助を凍結した。
2016年、核合意を受けてイランに対する制裁が解除されると、インドは援助を5億$に増額した[3]。インドの援助の理由は中国が援助するパキスタンのグワーダル港への対抗にあるとされるが、イランは中国とパキスタンにも投資を呼びかけ[4]、チャーバハール港とグワーダル港を結ぶ提案を行っており[5]、2019年12月には中国とロシアの艦艇がチャーバハール港に寄港してオマーン湾でイランと3カ国で合同軍事演習を行った[6]。
^ Sachau, Edward C., ed. (1910) [first published 1888], Alberuni's India, Vol. 1, Kegan Paul, Trench, Trubner & Co ^ Wink, André (2002) [first published 1990], Al-Hind: The Making of the Indo-Islamic World (Third ed.), Brill, ISBN 0391041738 ^ “India's $500 Million Bet on Iran”. Foreign Policy2016年7月22日閲覧。 ^ “アジアから中東に触手伸ばす中国-イラン港湾投資巡りインドと緊張も”. ブルームバーグ. (2018年4月12日)2018年8月21日閲覧。 ^ “Iran says ready to connect Pakistan's Gwadar to Iran's Chabahar port”. 新華社. (2019年5月24日)2019年6月14日閲覧。 ^ “イランが中ロと合同軍事演習開始、米をけん制か”. TBS. (2019年12月28日)2019年12月28日閲覧。
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