숭례문

( 崇礼門 )

崇礼門(すうれいもん、朝: 숭례문(スンネムン))は、大韓民国ソウル特別市中区世宗大路40(南大門路4街29)にある門である。一般に南大門(なんだいもん、남대문(ナムデムン))の通称で知られる。

2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失した。2010年2月10日から2013年4月30日まで復元工事が行われ、翌5月4日に復元記念式典が行われた。

 夜間にライトアップされる焼失前の崇礼門(2005年9月)

1392年に朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建て、1394年に漢城に遷都した太祖・李成桂は、1395年に漢陽都城(朝鮮語版)[1]と城門の建設に着手し、1398年に完成。東・西・南・北に位置する四大門の名称は、儒教の徳目である五常(仁・義・礼・智・信)からそれぞれ、興仁之門(東)、敦義門(西)、崇礼門(南)、粛清門(智の代わりに清を使用。後に粛靖門(朝鮮語版)と改称)と名付けられたが[2]、南側の主要な門(正門)である崇礼門は、俗に南大門と呼称された[3]。

世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に大きく改築され、冠岳山の火気を遮るようにと二階建てになった。譲寧大君が書いたとされる懸板は、火気を遮るために縦に書かれた。

その後、文禄・慶長の役や丙子の乱など幾多の戦乱を経るも、長い間、都の正門としての役割を果たしてきた。

大韓帝国時代の1907年、日本の皇太子嘉仁親王の行啓を機とする街路整備のため両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に孤立する形で残された。門の南西に1900年に開業した現在のソウル駅は、開業から1922年末までの間「南大門駅(南大門停車場)」と呼ばれ、1923年1月1日に「京城駅」に改称した[4]。

日本統治時代(1910年 - 1945年)の1925年から1926年にかけて、門を挟むように南に京城駅の赤レンガ駅舎(現在の「文化駅ソウル284」)、北に京城府庁舎(旧ソウル市庁舎、現在のソウル図書館(朝鮮語版))が建てられた。1933年に朝鮮総督府が朝鮮の主要文化財を保護する目的で定めた「朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物保存令」(昭和8年朝鮮総督府制令第6号)に基づき、1934年8月27日に「京城南大門」の名称で宝物第1号に指定された(指定当時の住所は京畿道京城府南大門通四丁目)[5]。

1948年の大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。破損した部分の大規模な解体、修復工事が1961年から1963年にかけて行われ、1962年12月20日に改めて大韓民国文化財保護法(朝鮮語版)(1962年法第961号)に基づき「ソウル南大門」の名称で国宝第1号に再指定された[6]。

なお、国宝の番号は単純に指定された順序に過ぎず、その価値に対する優越の順位ではないにもかかわらず[7]、日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「国宝第1号」を朝鮮の文化的な「独立宣言」である訓民正音等に変えるべきであるとの意見があがり[8][9][10][11]、2021年11月19日に文化財庁は文化財保護法施行令と文化財保護法施行規則を改正し、同日から「国宝ソウル崇礼門」と文化財指定番号を表記しない名称に変更された[12]。

ソウルで最古の木造建築であり同国の象徴のひとつともなっていたが、2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失した。

門への立ち入り  観光客に開放されていた崇礼門

韓国統監府による門周辺での路面電車(京城電車)軌道敷設に伴い、1907年に一般の立ち入りが禁止となったとされているが[13][14]、一方で自由通行の様子を撮影した1922年以前に撮影された写真も残されており[15]、実際には通行は禁じられていなかった。1929年に開催された朝鮮博覧会では「京城協賛会」による「祝 朝鮮博覧會」の奉迎看板が設置され、夜間は電飾が点灯されていた[16]。同年8月に発行された『京城府管内圖』にも、崇礼門を取り囲むロータリーと共に、門を通過する道路も一等道路に指定されていた[17]。

朝鮮戦争後の1961年から大規模な補修工事が行われ、工事が終了した後、2006年まで門の立ち入りは禁止されたままで、大きな車道に阻まれて近づくことも困難だった。しかし2005年5月27日、崇礼門の南側に芝生の広場(南大門広場、後に崇礼門広場に改称)が造成されたのに伴って、崇礼門の近くまで観光客の訪問が可能となり[18]、2006年3月3日からは崇礼門の中央通路・虹霓門(ホンエムン)[注 1]を往来できるようになった[19][13][14]。

なお、ホームレスによる不法侵入は2005年以前から常態化しており、それを受けて、崇礼門を管理する中区庁は2005年に業者に警備を依頼した。しかし、警報を受けた警備員が現場に向かわないなどずさんな警備が浮き彫りとなった[20]。

後述する放火事件後、修復、再建工事が行われ、2013年には再び立ち入りが可能になったものの、同年12月、再建工事の不備が見つかったため、再び立ち入り禁止措置が講じられている[21]。

^ ソウル漢陽都城ガイドブック、ソウル特別市文化観光デザイン本部、2014年5月 ^ [オピニオン]崇礼門の復元、東亜日報、2010年2月11日 ^ 『朝鮮王朝実録』の「太祖実録五年」9月24日條に「正南曰崇禮門,俗稱南大門。」とある。 ^ 「南大門驛改稱」『朝鮮総督府官報』第3115號、1922年(大正11年)12月28日、350頁 ^ 「朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物保存令第一條ニ依リ左ノ通指定ス」(昭和9年8月27日朝鮮総督府告示第430号)『朝鮮総督府官報』第2290號、1934年(昭和9年)8月27日、201頁 ^ 「文教部告示第169号」『官報』第3333号号外、1962年12月29日、1329頁 ^ 国宝第1号は変えられるのか、東亜日報、2005年11月11日 ^ 【噴水台】国宝の家、中央日報、2004年10月19日 ^ 国宝1号は「南大門より訓民正音」 議論再燃?=韓国、聯合ニュース、2016年5月31日 ^ <W解説>日本が番号を付けた韓国の南大門、「1号」が消えてしまった理由=文化財指定の全面改編、WowKorea、2021年2月14日 ^ 韓国国宝第1号崇礼門から「第1号」外す…87年前に日帝が付けたランキング、中央日報、2021年6月28日 ^ 「国宝崇礼門」「宝物ソウル興仁之門」…文化財の指定番号を廃止=韓国、WowKorea、2021年11月19日 ^ a b 99年ぶりに開かれた崇礼門、東亜日報、2006年3月4日 ^ a b 南大門中央通路99年ぶりに開放!、韓国旅行「コネスト」、2006年3月7日 ^ South Gate Entrance To Seoul - ウェイバックマシン(2007年1月29日アーカイブ分)、南カリフォルニア大学図書館 "The Reverend Corwin & Nellie Taylor Collection" ^ 『朝鮮博覧会記念写真帖』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、朝鮮総督府、1930年3月20日 ^ 『京城府府勢一班』(国際日本文化研究センター所蔵地図データベース) ^ “시민곁으로 돌아온 국보 1호 '숭례문' [国宝1号「南大門」が市民の側に戻った]” (朝鮮語). 聯合ニュース. NAVER. (2005年5月27日). https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=115&oid=001&aid=0001897199  ^ 来年夏から虹霓門の通行許可、東亜日報、2005年12月6日 ^ 【社説】数年前からホームレスの根城だった南大門 - ウェイバックマシン(2008年2月14日アーカイブ分)、朝鮮日報、2008年2月13日 ^ 国宝第1号の崇礼門、ずさんな修復工事で再び立ち入り禁止に、安価な材料使用が原因―韓国、Record China、2013年12月6日


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