カトマンズ(ネパール語: काठमाडौं [kɑʈʰmɑɳɖu]、ローマ字転写:kaṭhmaḍaũ、英語: Kathmandu)は、ネパールの首都で最大の都市である。カトマンドゥとも呼ばれる。別名はカンティプル(Kantipur)。 2021年国勢調査の予備調査結果によると人口は約85万人。
古代より、現在のネワール族の祖先であろうと思われる非インド・アーリヤ系先住民[† 1]がこの地で生活をしてきていたが、4世紀の後半にはインド・アーリア系のリッチャヴィ朝がカトマンズ盆地を征服しネパール(ネーパーラ)王国を興した[1]。リッチャヴィ朝は商業振興を図り都市経営を進めたが、王朝の衰退とともにカトマンズも衰退した[1]。
バグマティ川とパシュパティナート火葬場デーヴァ朝・マッラ朝時代はバクタプルがカトマンズ盆地の中心地であったが、世襲的な行政者がいたことから、都市機能は残っていた[2]。1328年にはマッラ王族のアーディティヤ・マッラによって焼き払われた[2]。 その後13世紀初頭ころから、それまでのデーヴァ王族に代わりマッラ王族が台頭しはじめ、15世紀にはヤクシャ・マッラ王の死後、長男ラーヤ・マッラ王が統治するバクタプルから二男のラトナ・マッラが独立し、カトマンズ・マッラ朝を開く。17世紀にはカトマンズ・マッラ朝から独立したシッディナラシンハ・マッラがパタンにパタン・マッラ朝をひらいた。こうして中世後期にはカトマンズ近辺でマッラ朝の3つの王国(カトマンズ、パタン、バクタプル)がこの地を治めていた。
カトマンズは16世紀後半にネワール文化の黄金時代を迎え、ハヌマン・ドーカ宮殿内のタレージュ寺院やハヌマン像などの建物、神像が建立された[2]。
1768年、ゴルカ王のプリトビ・ナラヤン・シャハが三王国を倒し、カトマンズを首都として定めた(ゴルカ朝)。翌1769年にネパールを統一すると、ゴルカ朝は戦勝記念として、ハヌマンドーカ宮殿内にバサンタプル・バワンを建てた。なお、ネパール統一までは、「ネパール」というと「カトマンズ」を指していた。
ラナ宰相の支配時代にラナ一族はカトマンズ市街地に「ラナ・パレス」と呼ばれる大邸宅を建て、また従者の住宅地とともに市街を北東に拡大した[3]。1934年にはビハール・ネパール地震に襲われ、カトマンズの建物の多くが損壊した[3]。
王政復古・開国後は人口が1961年からの30年間で3倍に増加し、スラムの増加や旧市街地の景観的不調和などの問題も発生している[3]。また急速に都市化が進む中で、建築遺構の崩壊も進んでいる[4]。
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