نينوى

( ニネヴェ )

ニネヴェ(英語: Nineveh)は、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市で、現在のイラク北部の都市モスルに位置する。近代にあってはコウユンジクとも呼ばれた。ティグリス川の東岸に位置し、新アッシリア帝国の首都にして最大の都市であり、紀元前612年までの約50年間において、世界最大の都市でもあった。現在では、都市モスルのうち、ティグリス川の東岸側の半分を指す一般的な地名であり、イラクのニーナワー県の名前はこの都市に由来する。

紀元前7世紀後半の新アッシリア帝国における激しい内戦の後、ニネヴェはバビロニア人、メディア人、ペルシア人、スキタイ人、キンメリア人を含むかつての従属国の連合軍によって占領・略奪された。その後、この都市が再び政治や行政の中心地になることはなかったが、古代後期にはキリスト教の司教の本拠地となった。中世にはモスルの方に重心が移って衰退していき、西暦13世紀の頃までには、ほぼ放棄された。

その遺跡は、モスルの歴史的中心部から川を渡ったところにある。城壁内の2つの主要な遺跡、すなわち遺丘は、テル・クユンジクとテル・ナビ・ユヌスである。イスラム教においては預言者ヨナをユヌスと言い、テル・ナビ・ユヌスには、ニネヴェで説教したとされる預言者ヨナに捧げた神殿がある。大量のアッシリアの彫刻やその他の工芸品がニネヴェで発掘され、現在は世界中の博物館で所蔵されている。

先史時代  1931年にニネヴェで発見された、青銅でつくられたアッカドの支配者の頭部。おそらくアッカドのサルゴンの息子、マニシュトゥシュを表したもの。作製は紀元前2270年頃と推定される。イラク博物館、オランダ国立古代博物館[1]。

ニネヴェは古代において最も古く偉大な都市の一つだった。後に、ヘレニズム時代の文書では、Νίνου πόλις (ニノーポリス) の創始者としてニヌスの名が記されているが、歴史的根拠はない。創世記10:11には、版によって「ニムロド」またはアッシュルがニネヴェを建設したと書かれている。ニネヴェは、メソポタミア上流域において発達した数々の中心地の1つだった。シリアの海岸からザグロス山脈までの、北の山脈と南の砂漠に囲まれた細長い地域では、天水農業を営むことができ、ニネヴェはその中に含まれていた。この地域では同じような文化的慣習、技術、経済が共有され、それらは新石器時代から同様の経過をたどった。

新石器時代

ニネヴェ平原の北側に隣接するザグロス山脈の洞窟は、土器以前の新石器時代A(Pre-Pottery Neolithic A)の居住地として使用された。最も有名なものとしては、シャニダール洞窟が挙げられる。ニネヴェそのものの起源となる村は、新石器時代後期の紀元前6000年頃には設立された。ニネヴェでの深層探査により、ハッスーナ期初期のものとされる土壌層が発見された[2]。ニネヴェの数キロメートル北東にはテペ・ガウラ(Tepe Gawra)やテル・アルパチヤ(Tell Arpachiyah)があるが、ニネヴェの発展や文化は、これらの遺跡と同様のものだった。ニネヴェは、ハラフ時代(紀元前61~52世紀頃)の典型的な農村だった。

銅器時代

紀元前5000年頃、ニネヴェはハラフ期の村からウバイド期の村へと移行した。銅器時代後期、ニネヴェは上部メソポタミアにおける数少ないウバイド期の村の一つであった。そのような村としてはウガリット、ブラーク、ハモウカル、アルベラ、アレッポなどが挙げられるが、これらの村は原始都市となっていった。地域は異なるが、類似の村としてはスーサ、エリドゥ、ニップルなどがある。紀元前4500年から4000年の間に、ニネヴェの面積は40ヘクタールにまで拡大した。

成長後のニネヴェはアナトリア以外で初めて銅を製錬した場所であり、近東全域への金属技術の拡散の過程において、注目に値する。テル・アルパチヤ(Tell Arpachiyah)には最古の銅精錬の遺跡があり、テペ・ガワ(Tepe Gawa)には最古の金属加工品が残っている。銅は、エルガニ(Ergani)の鉱山から産出された。

青銅器時代初期

ウルクの拡大期にニネヴェは、当時、ティグリス川において航行可能な最高地点にあったため、その貿易植民地となった。ユーフラテス川沿いにあったハブバ・カビラも同様の機能を備えていた。紀元前3000年までには、キシュ文明はニネヴェにまで拡大した。この時、ニネヴェの主要神殿はセム人の女神イシュタルに捧げられ、イシュタル神殿として知られるようになった。 ニネヴェのイシュタルは、フルリ・ウラルトゥの神殿のシャウシュカ(英語版)と混同された。また、この神殿は「エクソシストの家」(楔形文字: ???????????? GA2.MAŠ.MAŠ、シュメール語: e2 mašmaš)と呼ばれていた[3][4]。この名前の語源は、シュメール語でマシュマシュと呼ばれる祈祷師である。彼らは正式な司祭職から独立して活動する魔術師であり、諸々の病気の原因とされる悪魔を追い払う医療専門家でもあった。

ニネヴェ5期

この地域におけるニネヴェの影響は、ニネヴェ5期として知られる考古学時代(紀元前2900~2600年)に特に顕著になった。この時代は主に、メソポタミア上流域全域で広く発見された、特徴的な土器によって定義される[5]。また、メソポタミア上流地域については、考古学者によって初期ジャジーラ年代表(Early Jezirah chronology)が作成された。この地域年表によると、「ニネヴェ5期」は初期ジャジーラ1期~2期に相当する。

 幾何学模様や動物などを描いた、多色の壺。いわゆる「緋器」(Scarlet Ware)。イラク、ハムリン盆地のテル・アブ・カシムより出土。紀元前2800年から2600年頃。イラク博物館収蔵。

ニネヴェ5期の前は、後期ウルク期だった。ニネヴェ5期の陶器は、初期トランスコーカサス文化の陶器やジェムデト・ナスル期の陶器とほぼ同時代のものである[5]。イラクの緋器文化もこの時代に属する。色彩豊かな絵が描かれたこの陶器は、ジェムデト・ナスル期の陶器にやや似ている。緋色の器は、最初にイラクのディヤーラー川流域で見つかり、その後、近くのハムリン盆地やルリスタンでも発見された。この器は、スーサの原エラム時代とも同時代に属する。

ニネヴェ5期に関連する様式
彩色された壺。ニネヴェ5期 
彩色された壺。ニネヴェ5期
彩色された鉢。ニネヴェ5期移行期。 
彩色された鉢。ニネヴェ5期移行期。
ジェムデト・ナスル期の陶器 
ジェムデト・ナスル期の陶器
原エラム時代の陶器。紀元前3100年頃。 
原エラム時代の陶器。紀元前3100年頃。
陶器の壺。フダトゥ(Khudat)地区テペヤタギ(Tepeyatagi)から出土。クラ・アラクセス文化。 
陶器の壺。フダトゥ(Khudat)地区テペヤタギ(Tepeyatagi)から出土。クラ・アラクセス文化。
アッカド時代

この時点では、ニネヴェはまだ自治都市国家だったが、やがてアッカド帝国に編入された。初期の都市 (およびその後の建物) は断層の上に建設されたため、数々の地震によって被害を受けた。最初のイシュタル神殿も、これらの地震により破壊されたが、紀元前2260年にアッカドの王マニシュトゥシュにより再建された。

ウル第三王朝

初期青銅器時代の終わり頃には、メソポタミア地方はウル第三王朝によって支配された。

中期青銅器時代

紀元前2000年頃にウル第三王朝が崩壊し、中期青銅器時代に移行すると、台頭してきたアッシリアの勢力がニネヴェを取り込んだ。

古アッシリア時代

古アッシリア時代に「上メソポタミア王国」と呼ばれる王国を作り上げたシャムシ・アダド1世 (治世紀元前1813~1781年) の史料の中で、ニネヴェは、女神イシュタルの崇拝の中心地として言及されている。イシュタルへの信仰は、初期のニネヴェの重要性を高めた。

後期青銅器時代 ミタンニ時代  オースティン・ヘンリー・レヤード卿の『ニネヴェの遺跡』(1853年)をもとに作製された、芸術家によるアッシリアの宮殿ホールの復元図。

紀元前14世紀に、ミタンニ王の命令によりこの女神像は、[[古代エジプト|エジプト』のファラオ、アメンホテプ3世に送られた。アッシリアの都市ニネヴェは、紀元前14世紀初頭までの半世紀にわたり、ミタンニ国の従属国となった。

中アッシリア時代

アッシリアの王アッシュル・ウバリト1世は、紀元前1365年にニネヴェを取り戻し、ミタンニ帝国を倒して中アッシリア帝国(紀元前1365年 - 紀元前1050年)を建国した。

紀元前三千年紀後半から二千年紀にかけてアッシリアの君主が、ニネヴェで大規模な建築事業を行ったことを示す多数の証拠がある。ニネヴェは、元々は「アッシリアの地方都市」だったようである。中アッシリア帝国の王の中には、シャルマネセル1世 (紀元前1274年~1245年) とティグラト・ピレセル1世(紀元前1114年~1076年)が含まれる。両者ともに、アッシュルにおいて活発に建築事業を行った。

鉄器時代 新アッシリア

新アッシリア帝国時代、特にアッシュル・ナツィルパル2世(在位:紀元前883~859年)の時代以降、大規模に建設事業が行われた。ティグラト・ピレセル3世、サルゴン2世、センナケリブ、エサルハドン、アッシュルバニパルなどの歴代の王は、新しい宮殿のほか、シン、アッシュル、ネルガル、シャマシュ、ニヌルタ、イシュタル、タンムーズ、ニスロク、ナブーの神殿も建設した。

 牛狩りの場面を描いた装飾壁の浅浮き彫りの一部。ニネヴェ出土、アラバスター製、紀元前695年頃。(ベルリン、ペルガモン博物館収蔵) ニネヴェの北宮殿から出土した、メソポタミアのライオンを狩るアッシュルバニパルの浮き彫り[6]。大英博物館収蔵。センナケリブによるニネヴェの開発

ニネヴェを真に素晴らしい都市にしたのは、センナケリブである(紀元前700年頃)。父サルゴンの死後、センナケリブはニネヴェを新たな首都に定めた。彼は新しい通りと広場を設計し、その中に「無比の宮殿」とうたった南西宮殿を建設した。その平面図はほぼ復元されており、全体の大きさは約503メートル×242メートルである。宮殿は、少なくとも80以上の部屋で構成されており、その多くには彫刻が並べられていた。また、宮殿内では大量の楔形文字板が発見された。宮殿の強固な基礎は、石灰岩のブロックと日干しレンガで作られた。基礎の高さは22メートルあり、合計で、約268万立方メートルのレンガ(約1億6千万個相当)で作られている。城壁は日干しレンガで作られており、その高さは基礎部分からさらに20メートルにも達した。

主要な出入り口には、重さ30トンにも及ぶ巨大な石造りのラマッス像が置かれていた。これは、翼のあるメソポタミアライオン[6]、あるいは人間の頭を持つ雄牛だった。この巨像を設置するためには、バラタイの採石場から宮殿まで50キロメートルの距離を運び、現場に到着した際には、20メートルの高さまで持ち上げる必要があった。宮殿に運び込む際には、おそらくスロープを使ったことであろう。また、長さ3,000メートルにも及ぶ、アッシリア宮殿の石の浮き彫りもある。この中には、彫像の彫刻や船による輸送など、建設のあらゆる段階の記録が含まれている。ある絵には、44人の男たちが巨大な彫像を牽引している様子が描かれている。この彫刻では、巨像の上に立って指示する3人の男が描かれている。石像が目的地に到着すると、最後の仕上げの彫刻が行われた。彫像の多くは、重さが9~27トンにまで達する[7]。

壁画の彫刻には、数多くの戦闘や串刺しの場面、そしてセンナケリブの部下が彼の前で戦利品を誇示して行進している場面が含まれている。碑文では彼の征服を誇っており、バビロンについては次のように書かれていた。「その住民たちを、老若男女を問わず、余は容赦せず殺し、その死体で街の通りを埋め尽くした。」場面の全体が保存され、かつ特徴的な壁画としては、紀元前701年のラキシュ包囲戦を描いたものがある[8]。それはセンナケリブ治世における「傑作」であり、現在は大英博物館に所蔵されている。後に、彼はラキシュでの戦いについて、次のように書いている。「そして、余のくびきに服従しなかったユダのヒゼキヤ…余は彼を、籠に入れられた鳥のようにその王都エルサレムに閉じ込めた。彼に対して素早く土塁を築き、その城門から出てくる者には彼の罪の代償を支払わせた。略奪した彼の街は、彼の土地から切り離した。」[9]

当時、ニネヴェの総面積は約7平方キロメートルあり、城壁には15の大きな門が設置されていた。また、18本の運河によって丘からニネヴェに水を運ぶ精巧な給水システムを完成させており、センナケリブによって建設された壮大な水道橋の一部が、ニネヴェから約65キロメートル離れたジャーワンで発見されている[10]。この地域には、当時のバビロンの人口の約2倍にあたる10万人以上(もしかすると15万人近く)の住民が住んでおり、世界最大規模の居住地域であった。

オックスフォード大学のステファニー・ダリーのような一部の学者は、センナケリブが宮殿の隣に建設した庭園と、それに関連した灌漑工事が「バビロンの空中庭園」であったと考えている。ダリーの主張は、ベロッソスによる伝承に基づく空中庭園の位置についての議論をベースにしており、文学的・考古学的証拠を組み合わせて論考されている[11]。

アッシュルバニパル以後  アッシュルバニパル時代のニネヴェの城壁。紀元前645~640年。大英博物館 BM 124938[12]。

ニネヴェの繁栄した期間は短かった。紀元前627年頃に、新アッシリア帝国における最後の偉大な王、アッシュルバニパルが死ぬと、王位を争う一連の激しい内戦により、王国は衰退し始めた。紀元前616年、アッシリアはかつての属国であるバビロニア人、カルデア人、メディア人、ペルシア人、スキタイ人、キンメリア人の連合軍により攻撃された。紀元前616年頃にカルフを占領・略奪すると、連合軍はついにニネヴェに到達した。紀元前612年にニネヴェは包囲・略奪されて激しい市街戦となり、最終的にニネヴェは破壊された。ニネヴェの北方と西方にあるアッシリアの最後の拠点に逃げることができなかった市内の住民のほとんどは、虐殺されるか、あるいは市外に追放されて、それぞれの地方に新たに住み始めた。現場では、埋葬されていない多数の骸骨が考古学者により発見されている。その後、アッシリア帝国の残存勢力は紀元前605年には消滅し、メディアとバビロニアが旧アッシリア帝国の領土を分割した。

紀元前612年にニネヴェがメディアの支配下に入ったのか、それとも新バビロニア帝国の支配下に入ったのかは明らかではない。バビロニア年代記にはニネヴェの陥落に関する記述があり、そこではニネヴェが「山と丘と化した」としているが、これは文学的な誇張である。伝統的に、旧約聖書のエゼキエル書とクセノフォンによる『アナバシス』により、ニネヴェは完全に破壊されたことが確認できると考えられてきた。ニネヴェの滅亡後のアッカド語の楔形文字板は、存在が確認されていない[13]。ニネヴェは紀元前612年に荒廃したが、都市は完全に放棄されたわけではなかった。しかし、ギリシャの歴史家クテシアスとヘロドトスにとっては、ニネヴェは過去のものとなっていた。そしてクセノフォンは、紀元前4世紀にその場所を通過したとき、ニネヴェは放棄されていたと説明した[14]。

その後

ニネヴェが定住地として存続したことを示す最古の文字史料は、おそらく紀元前539/538年の、キュロスの円筒形碑文である。しかし、この解釈については議論がある。 ニネヴェと読むことが正しければ、キュロス大王がニネヴェにイシュタル神殿を修復し、おそらく再定住を奨励したことを示している。ニネヴェでは楔形文字のエラム石板が多数発見されている。おそらくそれは、アッシリア帝国が崩壊した後にエラムが復活した時代のものと思われる。ステファニー・ダリーが紀元前4世紀に書かれたものと主張する旧約聖書のヨナ書には、都市の悔い改めと破壊を防いだ神の慈悲についての物語が描かれている[13]。

考古学的には、紀元前612年以降にナブー神殿が修復され、センナケリブの宮殿がその後も使用された証拠がある。また、混合ヘレニズム宗教の痕跡もある。ヘルメスの像が発見され、セビッティ(Sebitti)[15]の神殿に、ギリシア語の碑文が供えられているほか、紀元2世紀に作られたヘラクレス・エピトラペジオスの像も発見されている[13]。

セレウコス朝のもとで、ニネヴェには積極的な再定住が進められた[16]。パルティア帝国統治下のセンナケリブ宮殿には、さらに変化が加えられた証拠が残されている。また、パルティア人は、銅貨を鋳造する地方機関をニネヴェに設置した[13]。タキトゥスによれば、紀元50年にローマの支援を受けてパルティアの王位を主張したメヘルダテスが、ニネヴェを占領した[17]。

古代後期までにニネヴェはティグリス川の東岸のみに人が住むようになり、西岸は無人となった。サーサーン朝時代には、ニネヴェは行政の中心地ではなくなっていた。西暦2世紀にはキリスト教徒が住むようになり、遅くとも554年には東方教会の司教区となった。 ホスロー2世(591~628年)はニネヴェの西岸に要塞を建設した。また、570年と595年頃に2つのキリスト教の修道院が建設された。この成長を続ける入植地がモスルと呼ばれるようになったのは、アラブ人の征服以後のことである。それまでは、Hesnā ʿEbrāyē(ユダヤ人の砦)と呼ばれていたかもしれない[16]。

627年、ビザンツ帝国とサーサーン朝ペルシアの間で争われた戦争のクライマックスのニネヴェの戦い(627年)は、この都の廃墟の近郊の平原で開かれ、ビザンツ帝国がサーサーン朝軍を破った。641年にはアラブ人によって征服され、西岸にモスクを建設して行政の中心地とした。ウマイヤ朝のもとではモスルがニネヴェを凌ぐようになり、ニネヴェはキリスト教徒が住む郊外へと縮小され、かつ、新規建設は制限された。13世紀にはニネヴェはほぼ廃墟となり、その後、モスルに吸収された。教会は預言者ヨナを祀るイスラム教の聖堂に改装され、2014年にISILによって破壊されるまで巡礼者が集まり続けていた[16]。なお、モスルは現在も、クルド人からニネヴェ、ネストリウス派キリスト教のアッシリア人からはニネワとよばれており、モスルを県都とするイラクの県、ニーナワー県もニネヴェの名に由来する。また、2016~2017年のモスル奪還作戦の際など、現代の都市モスルはニネヴェと呼ばれることもあり、その名残をとどめている[18][19]。

^ Mallowan 1936, pp. 104–110. ^ Colorado State University 2020. ^ Lambert 2004, p. 38. ^ Gurney 1936, pp. 358–359. ^ a b Shaw 2002, p. 427. ^ a b Ashrafian 2011, pp. 47–49. ^ Scarre 1999. ^ Reade 1998, pp. 65–71. ^ Brown 1995. ^ Jacobsen & Lloyd 1935. ^ Dalley 2013. ^ British Museum 2020. ^ a b c d Dalley 1993, pp. 134–147. ^ Vlaardingerbroek 2004, pp. 233–241. ^ 戦争を司る7人の神 ^ a b c Webb 2018, p. 1078. ^ Reade 1998, pp. 65–83. ^ Al Sumaria 2016. ^ Winter 2016.
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