Λευκάδα
( レフカダ島 )レフカダ島 (レフカダとう、ギリシア語: Λευκάδα / Lefkada、ギリシア語発音: [le̞fˈkaða])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている。
島には青銅器時代(紀元前3000年 - 紀元前1000年)の遺跡があり、遺物が発見されている[1]。
古代ローマの地理学者ストラボンによれば、アカルナニアの海岸部は古い時代に「レウカス」(Leucas)と呼ばれていたという。レウカスは紀元前7世紀にコリントス人によって植民が行われ、水路が開鑿されて本土と切り離された[1]。ペロポネソス戦争中、レウカスはスパルタを盟主とするペロポネソス同盟に参加した。
紀元前338年、マケドニア王国のピリッポス2世による支配下に置かれる[1]。その後、古代ローマの領域に入るが、紀元前2世紀にはローマに対する反乱も発生している[1]。
中世1204年、イピロス専制公国が第4回十字軍後の混乱の中で自立すると、レフカダ島もその領域に含まれた。1294年、ニケフォロス1世が娘のマリアをケファロニア宮廷伯ジョヴァンニ1世オルシーニと結婚させた際、レフカダ島は娘の所領として贈られた[1]。オルシーニ伯によって建設されたサンタマウラ要塞は、当時の島の中心地であった[1]。その後、島の領主はアンジュー家やトッツィ家に代わった。
1479年、オスマン帝国が島を占領する。1502年から03年にかけてヴェネツィア共和国が一時的に支配したが、1503年にオスマン帝国が奪回する。1684年、ヴェネツィア共和国が島を占領した。このとき、アマクシヒ(現在のレフカダ市街)に首府が移された[1]。
近現代1797年、ナポレオン1世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった。
1864年6月2日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された。
^ a b c d e f g (日本語) レフカダ島 (PDF) - レフカダ地域行政管理局・観光事業振興委員会発行
コメントを追加