Donostia

( サン・セバスティアン )

サン・セバスティアン(スペイン語: San Sebastián, スペイン語: [san seβasˈtjan])、またはドノスティア(バスク語: Donostia, バスク語: [doˈnos̺tia])は、スペイン・バスク州ギプスコア県のムニシピオ(基礎自治体)。ギプスコア県の県都である。

ビスケー湾に面しており、フランスとの国境からの距離は約20 kmである。2011年の人口は186,409人であり、サン・セバスティアン都市圏の人口は436,500人である。主要な経済活動は商業や観光業であり、スペインでもっとも著名な観光地のひとつである。その食文化やサン・セバスティアン国際映画祭などで世界的な知名度を得ている。ポーランドのヴロツワフとともに、2016年の欧州文化首都に選定されている。

先史時代・古代

サン・セバスティアン近郊で最初に確認されたヒトの定住跡はアメツァガニャの集落であり、市街地から見て南のインチャウロンド区とアスティガラガ(スペイン語版)の間にある。アメツァガニャからはグラヴェット文化期の紀元前24,000年前から22,000年前に遡る、動物の皮膚を切断するためのナイフとして使われた石器などが発掘されている。後期旧石器時代の野外の集落は、定住者が狩猟を行うホモ・サピエンスだったことを明らかにしており、さらに当時の寒冷な気候も指し示している[1]。

古代ローマ時代、サン・セバスティアンはヴァルドゥリ(英語版)の領土だったと考えられている。サン・セバスティアンの東17kmにあるイルンにはバスク・ローマの町であるオイアッソ(英語版)の遺跡があるが、文献上では長い間サン・セバスティアンがオイアッソであると誤認されていた。

中世

中世初期には長くサン・セバスティアンが文献に登場しないが、1014年、エルナニとの境界に近く、サガルド(リンゴ酒)用のリンゴ園を持つ聖セバスティアンの修道院がナバラ王国のサンチョ3世によってレイレ修道院に寄進された。1181年までに、サン・セバスティアンはイスルムに所在するナバラ王サンチョ6世に自治権(フエロ)を与えられ、オリア川とビダソア川の間のすべての領土を管轄した。

1200年にはアルフォンソ8世を王とするカスティーリャ王国に征服され、自治権を維持することは確認されたが、ナバラ王国は大西洋に直接到達するルートを剥奪された。1204年かそれより早く、モンテ・ウルグル山麓にある都市中心部にはバイヨンヌやさらに遠くからガスコン語を話す移住者が移り住んだ。彼らはその後数世紀の間に、サン・セバスティアンの発展に重要な足跡を残している[2]。

1265年、カスティーリャ王国とナバラ王国の婚姻に関する協定の一部として、港湾都市サン・セバスティアンがナバラ王国に与えられた。サン・セバスティアンに住んでいた多数のガスコン語住民は、ヨーロッパの他港やガスコーニュ地方との貿易の発展を支持した。サン・セバスティアンはギプスコア地方で起こった壊滅的なバンドス戦争(英語版)から逃れた領土中唯一の町である。戦争が終結した1459年にはサン・セバスティアンもギプスコア地方の一部となった[2]。16世紀までのサン・セバスティアンは大部分の戦争から逃れていたが、15世紀初頭までには簡易な構造の防壁が市街地を取り囲んでいたことが証明されている。中世末の1489年には大規模な火災によって町が荒廃し、この火災後には木材の代わりに主に石材を使用して町の復興に取り組んだ。

近代

近代のサン・セバスティアンは不安定さと戦争の時代だった。15世紀後半にナバラ王国が衰退すると、サン・セバスティアンはフランスとスペインの国境の最前線に取り残された。市街地の周囲にはより分厚くより洗練された防壁が築かれたが、1521年にはナバラ王国の消滅の余波としてスペインとフランスの間の戦争に巻き込まれた。オンダリビアでのスペインとフランスの衝突の際には、スペインに対して貴重な船舶の支援を提供し、この際のサン・セバスティアンがスペインに対して「とても気高くとても忠実」だったことが紋章に記録されている。また、1520年代のノアインの戦い(英語版)の際には部隊を派遣し、コムネロスの反乱の際には支援を提供することで、神聖ローマ皇帝カール5世の信頼を得た。

中世にイベリア半島北部をナバラ王国が征服してから、サン・セバスティアンはギプスコアの一員だったが、その設立以来政治的・経済的にサン・セバスティアンで主導的な役割を果たしていたガスコン人が影響力のある公的な地位から除外されるようになった。カルロス1世(カール5世)によってカスティーリャの貿易独占権が解除されると、1527年にはセストア(スペイン語版)が、1557年にはオンダリビアが、1558年にはベルガラが、1604年にはトローサが、1662年にはデバが、スペイン王室によって新大陸貿易の認可を受けている[2]。一方、戦争や疾病などの流行でサン・セバスティアンは荒んだ状態となり、フランスやオランダの貿易船から富を得たスペイン国王フェリペ2世の援助の下、多くの漁師や貿易商は生きるために海賊として航海に出た。

1656年、フェリペ4世の娘マリア・テレサとルイ14世がナバラ王国領(フランス領バスク)のサン=ジャン=ド=リュズ近郊で婚姻を行う際、サン・セバスティアンはスペイン王室の司令部として使用された。比較的平和な世紀だった17世紀の後、1721年にはフランスのベリック公爵軍によって包囲されたが、フランス軍の砲撃を受けることはなく、多くの都市構造は再建された。1728年には王立ギプスコア・デ・カラカス会社(英語版)が設立され、アメリカ大陸のスペイン領との貿易が盛んとなった。この会社の利益によって、市街地の改修・改善やサンタ・マリア教会の再築などが行われた。サン・セバスティアンの富の蓄積と発展は18世紀末まで続いた[3]。

スペイン独立戦争中の1808年、フランスのナポレオン1世軍はサン・セバスティアンを占領した。1813年8月28日夜にはイギリス海軍小艦隊が上陸して浜辺のサンタ・クララ島を占領し、フランス軍と対面。町はビスケー湾と川幅の広いウルメア川河口の間の狭い岬に位置し、自然の要塞のようで奪還が困難だった。ウィリアム・デント(英語版)は「ジブラルタルを除けば、(サン・セバスティアンは)私が見た中でもっとも強固な要塞である」と記している[4]。3日後の8月31日、イギリス軍とポルトガル軍の解放軍は、サン・セバスティアン包囲戦を行ってフランス軍から町を奪還した。解放軍は自制を失って町を焼き払い、丘の麓の1本の通り(現在の8月31日通り)のみが残ったが、サン・セバスティアンの住民はフランスに対する反発感情を捨てなかった。

現代  ギプスコア県庁舎 ビクトリア・エウヘニア劇場 クルサール国際会議場・公会堂とクルサール橋

1813年に町が破壊された後、わずかにレイアウトを変更して同じ場所に町を再建することになった。建築家のP・M・ウガルテメンディアによる近代的な八角形の草案をおさえて、結局M・ゴゴルサの青写真が承認されたが、ウガルテメンディアが都市建設の指揮を執った。旧市街には1817年にコンスティトゥシオ広場(憲法広場)が建設され、1828年から1832年には広場に市庁舎(現在の図書館)が建設された[5]:100。

商工業が発展して豊かなサン・セバスティアンはギプスコア県の県都となったが、1823年に専制主義者によって襲撃されると県都の地位を返上。専制主義者の軍隊が防壁を破った時、防壁中にはわずか200人の住民しかいなかった。第一次カルリスタ戦争中の1833年、デ・レイシー・エヴァンズ(英語版)に率いられたイギリスの義勇軍がカルリスタの攻撃から町を守り、殉職者はモンテ・ウルグルの英国人墓地に埋葬された。

19世紀初頭、国外に起源や祖先をもつ住民は特に貿易商として偏在していた。バスク地方のフエロ(自治権)のおかげで国外製品への課税がなく、サン・セバスティアンは海図の製作で莫大な利益を得ていた。ギプスコア県からの離脱を要求し、1841年にナバラ県と合併したが、1854年には再びギプスコア県都となった[6]。

1863年には防壁が取り壊され、軍事的要塞としての性格から逃れるために市域の拡大が試みられた[7]。防壁の残骸は市庁舎から東に延びるブールバールの並木道の地下駐車場で見ることができる。ホセ・ゴイコアやラモン・コルタサールが都市計画を任じられ、新古典主義のパリ様式で道路が直行するレイアウトがミラマール宮殿、コンチャ遊歩道などと組み合わされた[5]。フランスの王族貴族が夏の間をビアリッツで過ごすように、スペイン王室は夏の離宮(英語版)としてサン・セバスティアンを選択し、ミラマール宮殿やアジェテ宮殿などの邸宅を建てた。スペインの貴族や外交使節などもこれに従ってサン・セバスティアンに移転した。ラ・コンチャ海岸の造船所群が邸宅建設の支障となったため、造船所群はサン・セバスティアンの旧市街近くにあるパサイアに移転した。

第三次カルリスタ戦争中の1875年には町を砲撃が襲い、1876年には詩人のビリンチュ(英語版)が死去した[6]。スペイン王アルフォンソ12世が死去した1885年以降には、アルフォンソ12世の妻マリア・クリスティーナが毎年従者を連れて夏季の間滞在し、ミラマール宮殿に宿泊した。マリア・クリスティーナの名前はマリア・クリスティーナ橋やホテル・マリア・クリスティーナなどに残っている。1887年には7,000 m2もの敷地にダンスやカジノのためのグランド・カジノ(現在の市庁舎の場所)が建設された。カルデレロスやタンボラーダなどのイベントが開催されるようになり、またスペイン語やバスク語で新聞や文学作品が書かれるようになった。1897年には建築家マヌエル・デ・エチャーベによって新市街の中心にサン・セバスティアン大聖堂が完成。1912年にはビクトリア・エウヘニア劇場(スペイン語版)が完成し、落成式にはスペイン国王アルフォンソ13世も臨席した[8]。

サン・セバスティアンは本格的な海岸リゾート地に発展し、またアンティグア区や市郊外では工業も発展した。第一次世界大戦の勃発後、サン・セバスティアンは国際的な文化人や政治家から注目を集めるようになり[6]、マタ・ハリ(諜報員)、レフ・トロツキー(政治家)、モーリス・ラヴェル(作曲家)、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(画家)、ロマノーネス(英語版)(政治家)などが滞在した。1920年代から1930年代には様々な合理主義建築のランドマークが建設された。これらは通常は白色や薄い色調であり、ラ・エキタティーバ、ナウティコ、エアソなどが有名である。1924年から1926年には市の南端部分でウルメア川の運河化が実行された。1923年にはミゲル・プリモ・デ・リベラが軍事独裁政権を確立したが、プリモ・デ・リベラの独裁下での弾圧はサン・セバスティアンには及ばなかった。1924年には権威主義政権によって賭博禁止令が発令され、1887年設立のグランド・カジノと1921年設立のクルサールは存続に苦しんだ。1930年8月、ニセト・アルカラ=サモラ(英語版)やミゲル・マウラ率いる共和派はスペイン第二共和政につながるサン・セバスティアン協定を締結した。

1936年2月には左派が結集してスペイン人民戦線が政権を奪取。マドリードに戒厳令が引かれるなど政情が不安定になったため、各国の外交官、大使館員らはフランス国境に近いサン・セバスティアンに滞在するようになった[9]。 同年7月18日にはフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が決起してスペイン内戦が勃発。翌月にはサン・セバスティアンにも戦火が及び始めたため、日本の矢野真大使を含む各国の外交官たちはフランスへ脱出し始めた[10]。

当初、バスク民族主義者・アナーキスト・共産主義者による抵抗運動によって反乱軍(ナショナリスト派、国民戦線軍)が敗北したが[11]、共和派の労働総同盟(UGT)はバスク民族主義者に対して恐怖政治を行った。同年末にはバスク地方もナショナリスト派の手に落ち[12]、1937年にはフランコを統領とするファランヘ党の支配下に置かれた。占領状態は市民に悲惨な生活を強い、市長を含めた380人がナショナリスト派によって処刑された。多くの子どもたちは国外に逃れ、推定40,000人から50,000人がサン・セバスティアンから脱出した。戦争の余波で都市は貧困・飢餓・抑圧状態となり、物資の密輸が蔓延した。多くの共和党員が過酷で不快な条件のオンダレータ刑務所(1948年に解体)に勾留された。1940年代末から1950年代初頭には工業が発展し、ウルメア川河口部の湿地や河岸にあるエヒア区やアマラ・ベリ区などが都市拡大への道を開いた。

1943年には旧市街の自宅でバスク研究を開始したエルビラ・シピトリアによってバスク語学校(イカストラ)の種がまかれた。1947年には市庁舎がコンスティトゥシオ広場(憲法広場)からグランド・カジノの建物に移転した[5]。1953年には町の国内的・国際的な知名度向上や経済への好影響のために第1回サン・セバスティアン国際映画祭が開催された。工業生産の成長がスペイン各地からの大規模な移民に拍車をかけ、人口は著しく増加。アルツァ区、インチャウロンド区、ミラクルス=ビデビエタ区など、市街地中心部から数キロ離れた郊外では急速で混沌とした都市開発が行われ、社会的・文化的・政治的矛盾と不平等が不満を増大させた。特に武装分離独立組織バスク祖国と自由(ETA)や地下組織のバスク民族主義者などによって牽引された抗議運動やストリートデモの風潮は、1968年のギプスコア県初の非常事態宣言の引き金となった1975年には独裁政権のフランコ将軍が死去し、フランコイストの当局によってさらなる重しが科された。

不安定な経済状況と不動産投機状況の過程で、1973年に町の象徴的な建物だったグロス区の旧クルサールとチョフレ闘牛場が解体された[6]、1977年には彫刻家のエドゥアルド・チリーダや芸術家のペーニャ・ガンチェギによる彫刻作品『風の櫛』が完成。この作品はラ・コンチャ湾西端に設置され、完成までに25年が費やされた[13]。1970年代から1980年代中ごろは都市と社会の崩壊の時代だった。1979年にはスペイン初の民主的地方選挙が開催され、バスク民族主義党(EAJ-PNV)が勝利。バスク民族主義党は1991年まで分派のバスク連帯(英語版)(EA)と共同した。1991年にはスペイン社会労働党のオドン・エロルサが市長に当選し、約20年間に渡って市長を務めた。

1990年代にはサン・セバスティアンの新古典主義や現代主義建築の価値を高めることを狙い、市中心部の改良事業が着手された。注目すべき事業には、ラ・スリオラ海岸や海岸遊歩道の再整備と拡張、旧クルサール跡地へのクルサール国際会議場・公会堂の建設[6]、イバエタ区のナバラ大学の新キャンパスと技術設備の建設、広範な自転車レーン網の提供、地下駐車場の建設とメトロ・ドノスティアルデアなど公共交通機関の改善などがある。イバエタ区やロイオラ区などは現代的な都市設計がなされたが、重要な計画のいくつかは自治体の財政状況との天秤に掛けられている。2011年の市長選挙ではエロルサが敗北し、ビルドゥのフアン・カルロス・イサギーレが当選する予想外の結末となった[6]。

^ “Hallan un centenar de objetos de hace 22.000 años en el parque de Ametzagaina”. エル・ディアリオ・バスコ. 2011年9月17日閲覧。 ^ a b c “LOS GASCONES EN GUIPÚZCOA” (スペイン語). IMPRENTA DE LA DIPUTACION DE GUIPUZCOA. 2011年9月17日閲覧。 ^ Sadaba, Javier; Sadava, Asier (1995). Historia de San Sebastián. San Sebastian: Editorial Txertoa. pp. 56–58. ISBN 84-7148-318-1  Book in Spanish ^ L. Woodford (ed.), A Young Surgeon in Wellingtons Army: the Letters of William Dent (Old Woking, 1976), p. 39. ^ a b c 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「SadaSanse」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c d e f Berruso Barés, Pedro, San Sebastián en los Siglos XIX y XX, Ingeba, http://www.ingeba.org/liburua/donostia/46contem/46contem.htm 2013年8月15日閲覧。  ^ Gomez Piñeiro, Javier, La Estructura Urbana, Ingeba, http://www.ingeba.org/liburua/donostia/53geourb/53geourb.htm 2013年8月15日閲覧。  ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「marugame」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 総選挙で人民戦線派が勝利『東京朝日新聞』昭和11年2月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 首都マドリッドも包囲される『東京朝日新聞』昭和11年8月15日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p307 ) ^ Hugh Thomas, Spanish Civil War, (2001), p. 226 ^ Hugh Thomas, (2001), p. 397. ^ “エドゥアルド・チリーダ”. 高松宮殿下記念世界文化賞. 2014年9月27日閲覧。

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