Avenue des Champs-Élysées

( シャンゼリゼ通り )

シャンゼリゼ通り(シャンゼリゼどおり、フランス語: Avenue des Champs-Élysées、またはLes Champs-Élysées)は、フランス・パリの市内北西部にある大通り。

パリ市内で最も美しい通りとされていて、特にフランスでは「世界で最も美しい通り (la plus belle avenue du monde)」と言う表現が使われている。『オー・シャンゼリゼ』という流行歌で日本でも広く知られるようになった。

 ナポレオン3世即位直後となる1852年、シャンゼリゼ通りに建立されたナポレオン・ボナパルト像 手前からカルーゼル凱旋門、テュイルリー宮殿、シャンゼリゼ通りの先のエトワール凱旋門(1860年、第二帝政期) パリ解放後となる1944年8月26日、シャンゼリゼ通りを行進するフランス陸軍。市民は"VIVE DE GAULLE"(シャルル・ド・ゴール万歳)の横断幕を掲げている

シャンゼリゼ通りは元々は、農園と市場であったが、1616年にマリー・ド・メディシスがテュイルリー宮殿の庭園の軸を並木道で延伸したいと決めた。ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手がけたル・ノートル(Le Nôtre)によって都市計画がなされた。

1716年後半頃には、ギヨーム・ド・リズムのパリの地図によると、現在のロンポワン(円形広場)の地点にある丸い池によって終点となっている、並木道の植わった「テュイルリー通り」によってテュイルリー庭園の中心軸が短く伸びた通りで農園と市場が分けられているのが分かる。すでにそのころ放射線状に延びた並木道が森と畑を通って川まで達していた。1724年には、テュイルリー庭園を貫通する軸とその通りはエトワール広場までさらにつながり延伸され、「シャンゼリゼ(エリュシオン・極楽浄土)」という園地がその通りに面して広がり、元々秩序立てて植林されていたところがすぐに茂みとなった。

東のほうでは、当時好まれず無視されていた「旧ルーヴル」(地図ではそう書かれていた[1])が建物に囲まれて存在していたが、まだその東西軸(パリの歴史軸)の一部にはなっていなかった。1724年の地図では、シャンゼリゼ大通りは新しく整備された「トゥルナン橋広場 (Place du Pont Tournant)」(すぐに「ルイ15世広場」と改名され、現在の「コンコルド広場」となる)から西へ延びている。

18世紀末の頃にはシャンゼリゼは流行の通りになっていた。両側の植え込みは正式の長方形の緑地帯をなすほど茂っていた。フォーブール・サントノレ通り沿いに建てられた家々の庭はさらに格調のある茂みを形作っていた。その最大のものがエリゼ宮である。建物の前面の半円型の部分がロンポワンの北端となっている。王妃マリー・アントワネットは友人達とここを流し、ルイ15世広場(現在のコンコルド広場)にある堂々たるオテル・ドゥ・クリヨン(fr、en)で音楽の授業を受けた。

現在のロンポワンからエトワール広場への通りは第一帝政時代に建設された。シャンゼリゼそのものは1828年に正式に市の資産となり歩道、泉、ガス灯などが作られた。

第二次世界大戦中の1940年6月14日には、パリにドイツ国防軍が無血入城。機械化部隊と歩兵部隊はシャンゼリゼ通りから凱旋門に向かって行進を行ったが、見物した市民はわずかであった[2]。 その後のナチス・ドイツによるフランス占領時代には、ドイツ国防軍が木陰を行進したいがために街路樹の数を倍にしたと言われた。最近では1993年に側道部分が拡幅されるなど、何年もの間この大通りは様々な経緯変遷を経てきた。

2000年代においても各種デモ行進および参加者の集結地となる。2018年から2019年にかけた発生した黄色いベスト運動では、しばしば暴徒による放火や沿道の商店などから略奪が発生した。2019年3月16日には、ルイ・デリュック賞の選考会場としても知られる高級カフェ、フーケが炎上している[3]。また、2023年6月27日から7月2日にかけては、北アフリカ系の少年が警察官に射殺されたことへの抗議デモが暴動となり、通りの自動車が放火されることがあった[4]。

1980年代、シャンゼリゼ通りの街路樹などを利用してイルミネーションによるライトアップが開始。規模は少しづつ拡大し、2000年代においては11月下旬から翌年1月上旬にかけて、約2kmの区間でライトアップが行われるようになった。2020年には、新型コロナウイルス感染症の影響で外出禁止令が出る期間と重なる中でも行われた[5]。2022年にロシアによるウクライナ侵攻が起こると欧州全体でエネルギー事情が逼迫することとなったが、消費電力を前年比の半分に落としながらもライトアップは実施されることとなった[6]。

2030年に向けて通りの商店組合で組織するシャンゼリゼ委員会が「Réenchanter les Champs-Elysées(シャンゼリゼ通りを再び夢ある場所に!)」というプロジェクトを進めている[7]。

^ 狭義には、16世紀半ば以降、カトリーヌ・ド・メディシスによりルーヴル宮殿の拡張建造されたセーヌ川沿いのギャルリーや旧テュイルリー宮殿箇所を除いた、最初期のルーヴル城塞ないし砦のあった宮殿東側箇所を言う。広義には、フランス革命期の"ヴェルサイユ行進"でルイ16世、マリー・アントワネットらがルーヴル宮殿と隣接して建つ旧テュイルリー宮殿に戻ってくるまで、宮廷はルイ14世の治世途中から実質的にヴェルサイユ宮殿に置かれていたため、ルーヴルの拡張が為されなかった事とも理由が重なる。 ^ 機械化部隊を先頭に、独軍のパリ入城式(『東京日日新聞』昭和15年6月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p372 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ “パリ・シャンゼリゼで略奪や放火 デモが暴徒化230人以上拘束”. 産経新聞 (2019年3月17日). 2019年12月6日閲覧。 ^ “フランス各地で暴動、マクロン大統領はドイツ訪問中止…パリ中心部シャンゼリゼ通りでも”. 読売新聞 (2023年7月2日). 2023年7月2日閲覧。 ^ “パリ シャンゼリゼ通り イルミネーション開始も人通りはまばら”. NHK (2020年11月23日). 2022年11月23日閲覧。 ^ “シャンゼリゼ通りのライトアップ始まる、消費電力は去年の約半分”. ロイター (2022年11月21日). 2022年11月23日閲覧。 ^ 「パリ市が目指す自然にも市民にも優しい都市改革 ソフトモビリティと緑化が未来都市の鍵」『日経BP』。2023年6月13日閲覧。
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