طيبة (مصر)

( テーベ )

テーベ(古代ギリシア語: Θῆβαι, Thēbai)は古代エジプトの都市。古代エジプト語ではワセト(Waset)と呼ばれた。この都市は地中海から800キロメートル南、ナイル川の東に位置する。都市の遺跡は現代のエジプトの都市ルクソールの中に広がっている。テーベは上エジプト第4州(権杖のノモス Sceptre nome)の主要都市であり、新王国時代のエジプトの首都であった。テーベは貴重な鉱物資源と交易ルートがあるヌビアと東部砂漠に近接していた。この都市は信仰の中心であり、その全盛期にはエジプトで最も富裕な都市であった。テーベの市域には、カルナックとルクソールが本来立っていたナイル川東岸と、上流階級と王家の墓地と葬祭殿群によるネクロポリスがある西岸地区が含まれる。


古王国  テーベのネクロポリス

テーベには紀元前3200年頃から人が住んでいた[1]。この都市には上エジプト第4州の名前ワセトと同じ名前が与えられ、第4州の主都であった。メンフィスがファラオの王宮の役割を務めていたこの時点では、テーベはまだ小さな交易拠点であった。恐らく中王国時代に作られたカルナック神殿複合体の一部よりも古い建造物は何も現存していないが、第5王朝のファラオ、ニウセルラー像の下部が、カルナックで発見されている。第12王朝の王センウセルトによって捧げられた別の彫像は、ベルトにニウセルラーのカルトゥーシュがあるため、再利用されセンウセルトに名前を奪われたものかもしれない。カルナック王名表には第4-第6王朝の7人の王が記載されているため、少なくても古王国時代のテーベ地区には神殿があった可能性がある[2]。

第1中間期

紀元前2160年までに、新たな王家(第9王朝と第10王朝)がヘラクレオポリス・マグナを拠点に下エジプトと上エジプトの北部を統合した。これに対抗する王家(第11王朝)がテーベを拠点に上エジプトの残りの部分を支配した。

テーベの支配者は明らかにテーベ(英語版)大アンテフ(英語版)(アンテフA)の子孫である。彼の孫であると考えられるアンテフ1世は、テーベ周辺以外の地域へ支配を広げてはいなかったが、この家系で初めてファラオ位を部分的に主張した。

中王国  アンテフ1世のセレク。彼の死後メンチュヘテプ2世によって刻まれた

遂に紀元前2050年頃、アンテフ3世の息子メンチュヘテプ2世(「メンチュ神は歓喜せり」の意)は軍事力でヘラクレオポリスを奪い、エジプトを再び一人の支配者の下に置いた。これによって、現在中王国として知られる時代が始まった。メンチュヘテプ2世は51年間統治し、デイル・エル=バハリに最初の葬祭殿を建設した。この葬祭殿はまず間違いなく、第18王朝時代にハトシェプストによって隣接して建てられた葬祭殿に影響を与えている。これらの出来事の後、メンチュヘテプ2世の死からメンチュヘテプ4世までの20年弱という短期間で滅亡した。その経緯は謎である。

第12王朝の時代、アメンエムハト1世は玉座を北のイチ・タウィへ遷した。だがテーベは、その地方神アメンがエジプト全土で崇拝されるようになったため、宗教的中心地として繁栄を続けた。最も古いアメン神殿の遺跡は、センウセルト1世の時代のものである[2]。テーベは既に中王国時代にはかなりの大きさの都市であった。カルナック神殿周辺の発掘で、中王国時代のテーベは格子状のレイアウトを持っていた事がわかっている。テーベは少なくても1キロメートルの長さと、50ヘクタールの面積を持っていた。二つの豪華な建物の遺跡も発見されている[3]。

第12王朝の後半に入ると、カナン人の集団がナイルデルタ東部に居住し始めた。彼らはその後、第14王朝をアヴァリスで打ち立てた(前1805年頃、または前1710年頃)。こうして、アジア人達はデルタ地域の大部分に覇権を確立し、同時期に第12王朝を引き継いだ第13王朝の影響下からこれらの地域を切り離した。[4]

ヒクソス時代  アジア系の人々(左)とエジプト人(右)。アジア人のリーダーは「異国の支配者」とラベルされている。(イブシャ)

アジア人の第二の波はヒクソスと呼ばれている。この名前は彼等の統治者を指すエジプト語、ヘカ・カスウトHeqa-khasut 異国の支配者達)から来ている。彼らはエジプト内に移住し、アヴァリスのカナン人の権力中枢を制覇して第15王朝が始まった。ヒクソスの王達は第2中間期(前1657年 - 前1549年)の速い段階で下エジプトの支配権を得た[5] 。ヒクソスがメンフィスを奪取した第13王朝のメンネフェルラー・アイの治世中(前1700年頃)かそのすぐ後、第13王朝の支配者達はテーベへと引き、テーベを首都として再興した[6]。

ヒクソスがデルタの南方からエジプト中部へと進むと、テーベ公たち(現在第16王朝として知られている)は、頑強に立ちふさがった。テーベ人たちは平和的に共存する取り決めをすることで、ヒクソスの更なる前進を防いだ。この取り決めの下、ヒクソスはヌビア人と交易するために、テーベとナイル川急湍(英語版)を越えて上流へと航海することができ、テーベ人は敵に出会う事なく彼らの家畜をデルタへと運んだ。

その状態はヒクソスの支配者アポフィス(第15王朝)が、テーベのセケンエンラー・タアを侮辱するまで続いた。まもなく、テーベの軍隊がヒクソスの支配地へ進軍した。この戦いでタアは戦死し、彼の息子カーメスが軍を引き継いだ。更にカーメスの死後、その兄弟イアフメス1世はヒクソスの首都アヴァリスを占領するまで攻撃を続けた。イアフメス1世はエジプトとレヴァントからヒクソスを追い出し、かつて彼等が支配していた土地を取り戻した[7]。

新王国とテーベの最盛期  洪水の中のメムノンの巨像、デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)作

イアフメス1世は統一されたエジプトの新たな時代を築き、テーベはその首都となった。首都としてのテーベの遺跡は大部分第18王朝(新王国)時代のものである。

テーベはまた、新たに設立された専門の役人達の中枢となった。王室の書庫で会計報告と報告書が記入されるようになったため、このような専門の書記と学者のような専門の役人には大きな需要があった[8]。この都市ではヌビアにおける植民地統治の管理者とするため、特に選ばれた少数のヌビア人がエジプト文化によって再教育された[9]。

 カルナック神殿の見取り図

エジプトは再び安定し、宗教とその中心地は栄え、テーベ以上の存在はなかった。例えばアメンヘテプ3世は、外国からの貢物によって得た莫大な富をの多くをアメン神殿につぎ込んだ[10]。テーベの神アメンは国家の主神となり、全ての建築プロジェクトが、アメンとファラオ自身の栄光を称揚し、最後に建てられた物を凌駕することを意図された[11]。トトメス1世(在位:前1506年 - 前1493年)は、崇拝を集めたカルナック神殿の初めての大規模拡張を始めた。そののち、カルナック神殿の大規模拡張は新王国時代を通して継続された。

女王ハトシェプスト(在位:前1479年 - 前1458年)は交易網を再整備(主にテーベの紅海の港アル・クサイル(英語版)及びエイラトとプント国との間の紅海交易)し、テーベを経済的に繁栄させた。彼女の後継者トトメス3世は、ミタンニまでの地から得られた膨大な戦利品テーベにもたらした。第18王朝は彼の曾孫アメンヘテプ3世の治世(前1388年 - 前1350年)に最盛期を迎えた。彼はアメン神殿をさらに壮麗に装飾するとともに、テーベにおける建築活動を空前の規模で行った。アメンヘテプ3世はテーベの西岸で、巨大な葬祭殿(英語版)と、364ヘクタールの面積を持つ人造湖に面したマルカタ王宮を建設した。他に彼によってテーベに建てられた建物には、ルクソール神殿とカルナックに繋がるスフィンクスの街道がある。

アメンヘテプ3世の息子アクエンアテン(前1351年 - 前1334年)の束の間の治世の間、テーベは受難の時を迎えた。テーベの王宮は放棄され、アメン神に対する信仰は禁止された。首都はテーベとメンフィスの間に作られた新たな都市アマルナ(アケトアテン)に遷った。アクエンアテンの死後、彼の息子ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)はメンフィスに戻った[12]。しかし、テーベでの建築活動への関心を新たにし、栄光ある神殿や社が更に作り出された[10]。

 テーベのラメセウム(The Ramesseum at Thebes)。ジョン・フレデリック・ルイス(John Frederick Lewis)作

第19王朝では、政府はデルタ地帯に遷ったが、テーベはセティ1世(前1290年 - 前1279年)とラムセス2世(前1279年 - 前1213年)の治世を通して、その財力と威信を維持した。彼等はまだ一年のうちの一部の期間は毎年テーベに住んでいた[10]。ラムセス2世はテーベで広範な建築プロジェクトを実施した。その中には巨大な像とオベリスク、カルナック神殿の三番目の周壁、ルクソール神殿の増築、及び彼の巨大な葬祭殿ラメセウムの建設が含まれる。これらの建設資金は、上エジプトから集めた税を集中させた巨大な穀倉群[13](ラメセウムの周囲に作られた)及び、ヌビアと東部砂漠への金採掘の遠征[14]によって賄われた。ラムセスの66年の長きにわたる統治の下で、エジプトとテーベはかつての最盛期と同等かそれ以上の圧倒的な繁栄を迎えた[15]。

 メディネト・ハブ(英語版)

テーベは20世紀初めまで良好な状態で保存されていた。大ハリス・パピルス(英語版)はラムセス3世(在位:前1187年 - 前1156年)が86,486人の奴隷と広大な土地をアメン神殿に寄進したと記している。ラムセス3世は海の民とリビア人の部族メシュウェシュ(英語版)を含む全ての臣民から貢物を受けた。しかしエジプトは全体としては財政的な問題を抱えており、この問題はテーベの村落デイル・エル=メディナ(英語版)にも及んでいた。ラムセス3世の治世第25年には、デイル・エル=メディナの労働者は給与不払いに対してストライキをはじめ、全ての社会階級に不安が広がった。ラムセス3世の後宮では大逆の事件が発生したが、結果としてこの反逆行為はテーベの官吏と女性を含む多くの人々の死につながった[16]。

ラムセス王朝(第20王朝)の後半、テーベは衰退を始めた。政府は重大な財政不安に陥ったように見える。ラムセス9世の治世(前1129年 - 前1111年)中、紀元前1114年頃に、テーベ東岸の市長によるテーベ西岸の同僚の告発が行われ、その後行われた西岸のネクロポリスにある王墓群で行われた略奪に関する一連の調査によって、権力の腐敗の証拠が明らかにされた。

盗み出された王たちのミイラは、点々と場所を移され、最後はアメン神官によってデイル・エル=バハリの墓穴と、アメンヘテプ2世の墓に保管された(1881年と1898年に、この二つの隠し場所がそれぞれ発見されたことは、現代の考古学における大発見であった。)。このようなテーベにおける不手際は、社会不安に繋がった[10]。

第3中間期

第3中間期の間、地方の支配権はアメン大司祭の手の中にどんどん収まっていった。アメン大司祭はデルタ地帯を支配していた第21王朝、第22王朝の王達と等しい立ち位置となり、エジプトの南部で絶対的な権力を及ぼした。相互の婚姻と、養子縁組によってアメン大司祭とタニスに拠点を置くデルタ地帯の王達の結びつきは強まり、タニスの王女達はテーベでアメンの神妻に就任し、大きな権力を振るった。第3中間期の後期にはテーベの政治的影響力は後退した[2]。

 タハルカ王の柱。元の高さに復元された。

紀元前750年頃、クシュ人(ヌビア人)達はテーベと上エジプトに対する影響力を増大させていた。かつてのエジプトの植民地クシュは、帝国へと成長していた。紀元前721年、クシュ人の王シャバカは、オソルコン4世(英語版)(第22王朝、ペフチャウアバステト(第23王朝)、バクエンレネフ(英語版)(エジプト第24王朝)の連合軍を打ち破り、再びエジプトを統一した。彼の治世では全エジプト、特に彼が王国の首都としたテーベ市で相当な量の建築活動が見られた。

カルナックでは、シャバカはプスケント(上下エジプト王冠)を身に着けた自分の王像をピンクの花崗岩で造らせた。タハルカ(英語版)王は、アッシリア人がエジプトに対して戦いを仕掛ける前に、テーベとヌビアにおける多くの有名な建設事業を完了させた(例えば、カルナックのキオスク)。

末期王朝時代

紀元前667年、アッシリア王アッシュールバニパルの軍隊がエジプトを攻撃した。タハルカは下エジプトを放棄し、テーベへと逃亡した。彼の死の3年後、甥のタヌトアメンはテーベを押さえ、下エジプトに侵攻してメンフィスを包囲した。しかし紀元前663年にエジプトを再征服する試みを放棄し、南方へと引いた[17]。アッシリア人はタヌトアメンを追撃し、テーベを占領した。テーベ市の名はアッシリアが占領し破壊した長い都市のリストに加えられた。アッシュールバニパルは以下のように書いている。

この都市の全てを、アッシュール神とイシュタル神の加護によって余は征服した。銀、金、貴石、宮殿の財宝の全て、高価な布、貴重なリネン、素晴らしい馬、男女の監督者、エレクトラムでできた二つの素晴らしいオベリスク、2,500タラントの重さの神殿の扉の数々、余はこの品々を彼等の拠点から剥ぎ取り、アッシリアへと持ち帰った。エジプトとクシュに対し、余は槍を取り余の力を示した。両手を満たして、余は恙なくニネヴェへと帰還した[要出典]。

この後テーベはかつての政治的意義を取り戻すことはなかったが、重要な宗教的中心としては残っていた。アッシリアはエジプトの王にプサムテク1世(プサメティコス1世)を据え、彼は紀元前656年にテーベを手に収めた。そして彼の娘ニトクリス1世(英語版)(ネイトイケルティ1世)をアメンの神妻の後継者として連れてきた。紀元前525年、ペルシアのカンビュセス2世がエジプトに侵攻しファラオとなった。エジプトはアケメネス朝のサトラペイア(州)として、その従属王国となった。

グレコ・ローマ時代  ハトホル神殿のレリーフ。デイル・エル=メディナ(プトレマイオス朝時代の建設)

テーベと北部の中央権力の良好な関係は、エジプトのファラオがアレクサンドロス大王の征服によって現地人からギリシア人に置き換わった時に終わった。アレクサンドロス大王はオペト祭(英語版)の最中にテーベを訪れた。この訪問は歓迎されたにもかかわらず、テーベは反対勢力の中心地となった。紀元前3世紀の終わりに、ヌビアに出自を持つ可能性があるハロンノフリス(英語版)(ホルウェンネフェル)は上エジプトでプトレマイオス朝に対する反乱を起こした。ハロンノフリスの後継者アンクマキス(英語版)(カオンノフリス、アンクウェンネフェルとも)は紀元前185年まで上エジプトの大部分の支配を維持していた。この反乱はテーベの神官団によって支えられていた。紀元前185年に反乱を鎮圧した後、プトレマイオス5世は反乱に加担した神官達を許した。プトレマイオス5世はテーベの神官達の支持を必要としていたからである。

半世紀後、テーベで再び反乱がおこり、紀元前132年にハルシエセが王位に昇った。ハルシエセは資金調達のためテーベの王の金庫を押さえたが、翌年には逃走した。紀元前91年には別の反乱が発生した。翌年にはテーベは制圧され、都市は瓦礫の山となった[18]。

ローマによる支配(前30年 - 349年)の間、テーベに残存した住民達のコミュニティはルクソール神殿のピュロン[注釈 1]の周りに集まった。テーベはローマのテバイス(テーバイス)属州の一部となった。後にこの属州はテーベ市を中心とするテバイス・スペリオルと、プトレマイス・ヘルミオウ(英語版)市を中心とするテバイス・インフェリオルに分割された。ローマがヌビアへの軍事遠征をしている間、ローマ軍団はルクソール神殿に本営を置いた[19]。テーベでの建設活動が突然終わることはなかったが、その後のテーベは衰退を続けた。西暦1世紀、ストラボンはテーベが単なる一村落に転落したと述べている[10]。

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