占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島о.Шумшу)、英語表記はShumshu。ロシアが実効支配しているが、日本側はサンフランシスコ条約締結以来、国際法上は領有権の帰属は未確定と主張している。

現在の島民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア国境軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。

先史時代から幌筵島と共に人が古くから居住していた。海獣や鳥が多く、生活に都合のよい場所だったとされる。

1700年(元禄13年) - 元禄国絵図のため松前藩が幕府に呈上した松前島郷帳に、「しいもし」の名が見られる。 1711年及び1713年 - ロシア人ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ(Данила Яковлевич Анцыферов)とイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキー(ロシア語版)Иван Петрович Козыревский)が占守島に上陸し、住民のアイヌからヤサーク(毛皮税)を取り立てた。1715年(正徳5年) - 松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。 1855年(安政元年) - 日露和親条約によって、日本とロシアの間で、ロシアの領土であることが一旦は確定された。しかし、この頃になると日露両国の雑居地とされていた樺太に関する問題が深刻化した。1875年(明治8年)5月7日 - 樺太・千島交換条約で樺太と交換され日本領となる。 1875年(明治8年)9月 - 樺太開拓使とアイヌ人が内地に引き揚げる。『根室県史草稿』によるとロシアからの引継時人口は33名。『明治9年千島三郡取調書』では9戸35名とある。 1875年(明治8年)10月 - 日露両国間で譲渡式がおこなわれる。これにより、目前のロシア、後のソビエト連邦と向き合う最前線となり、国境警備の拠点として日本軍が駐屯。当時の行政区画では北海道千島国占守郡(現在の北海道根室振興局管内)に属し、択捉島以南と異なり町村制は施行されなかった。択捉島以北にはほとんど民間人の定住者はいなかった。しかし、水産缶詰工場などが建設され、多くの漁民や工場労働者が季節的に滞在していた。1877年(明治10年) - 井深大の祖父基が函館支庁官吏として千島列島を巡回した際、占守島を訪れている[1]。その任を命じたのは、千島の調査に乗り出した北海道開拓使であった。 1892年(明治25年)7月4日 - 以降、侍従の片岡利和が上陸。目的は千島列島の調査で、これ以前に既に他の島を巡っていた。また、後にこの方面への開発が進むきっかけとなった。同年夏、片岡侍従らは海軍の柏原長繁大佐の軍艦「磐城」に便乗して帰るが、片岡調査団の根拠地は「片岡」という地名になる。 1893年(明治26年)8月31日 - 千島報效義会の会員が上陸して越年。 1895年 - 千島報效義会が一時退去するものの翌年、57 名により本格的な入植(片岡)を試みる。 1899年(明治29年)春 - 報效義会の拓殖事業が本格化、別所佐吉らが入植。 1906年(明治40年) - 日露漁業協定により本格的な北洋漁業が開始。 1910年(明治43年) - 小規模なカニの缶詰工場が発足。1914年マルハが本格操業開始。第二次世界大戦前の最大人口(夏季に約 1,000 人)を数えるようになる。 1940年(昭和15年)9月 - 陸軍築城部が要塞建設に着手。 1945年(昭和20年)8月18日 - 日本がポツダム宣言の受諾を宣言した後、ソ連軍が島の北部の竹田浜に上陸。日本軍と戦闘に突入(占守島の戦い)。千島列島で唯一のソ連との交戦が行われた地となった。 同年9月2日 - 日本政府が降伏文書に調印すると、同日に出された一般命令第1号によって、占守島はソ連占領下となった。 1946年(昭和21年)1月29日 - 連合国最高司令官指令第677号によって、千島列島における日本の行政権が正式に停止させられる。 同年2月2日 - ソ連が自国領土編入を宣言。 1951年(昭和26年) - 日本はサンフランシスコ講和条約で同島を含む千島列島の領有権を放棄させられた。同条約では、放棄させられた千島列島の帰属が定められていないので、日本政府はこの地域の帰属は未定という立場を取っている。 1991年(平成3年) - ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。その他

占守島な学術的調査は、1899年の鳥居龍蔵による千島アイヌの民族学的・考古学的調査が最初である。翌1900年には北海道庁属託の河野常吉が高岡直吉(北海道庁参事官)の北千島調査に加わるかたちで考古学的調査を行った。その後、1930年代の馬場による大規模な発掘調査が実施された[2]。

別飛遺跡[2] 潮見川遺跡[3]^ ソニーを創った男 2002, p. 25-26. ^ a b 高瀬克範, 鈴木建治「馬場コレクションの再検討 : 北千島の竪穴住居・土器・石器の基礎的研究」『北海道大学文学研究科紀要』第140号、北海道大学大学院文学研究科、2013年、1-56頁、ISSN 1346-0277、NAID 120005301705。  ^ 馬揚脩「北千島占守島の第二回考古學的調査報告」『人類學雜誌』第51巻第3号、日本人類学会、1936年、91-115頁、doi:10.1537/ase1911.51.91、ISSN 0003-5505、NAID 130003881906。 
写真提供者:
Ministry of Defence of the Russian Federation - CC BY 4.0
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