エチオピア
のコンテキスト エチオピア
- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(アムハラ語)
Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno(アファル語)
Rippabliikii Federaalawaa Dimokraatawaa Itiyoophiyaa(オロモ語)
Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya(ソマリ語)
ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ティグリニャ語) - 国の標語:なし
- 国歌:ወደፊት ገስግሺ ውድ እናት ኢትዮጵያ(アムハラ語)
前進せよ、親愛なる母エチオピア
エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく、アムハラ語: የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ...続きを読む
- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(アムハラ語)
Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno(アファル語)
Rippabliikii Federaalawaa Dimokraatawaa Itiyoophiyaa(オロモ語)
Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya(ソマリ語)
ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ティグリニャ語) - 国の標語:なし
- 国歌:ወደፊት ገስግሺ ውድ እናት ኢትዮጵያ(アムハラ語)
前進せよ、親愛なる母エチオピア
エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく、アムハラ語: የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ)、通称 エチオピア は、東アフリカに位置する連邦共和制国家。首都はアディスアベバ。アフリカ最古の独立国であり、現存する世界最古の独立国の一つである。また、インド・ヨーロッパ語族言語とアラビア語のどちらも公用語となっていない、アフリカで唯一の国である。
エチオピアの人口は、2020年時点で1億1,496万人となっている。およそ3,000年の歴史をもち、80以上の民族がそれぞれの文化を持って共存している多民族国家である。
北隣のエリトリアが1993年に分離・独立したことで、海に面する国土を持たない内陸国となった。他に陸上の国境を接する国は、東がソマリア、北東がソマリランドとジブチ、北西がスーダン、西が南スーダン、南がケニアである。
詳細について エチオピア
- 通貨 ブル (通貨)
- 呼び出しコード +251
- インターネットドメイン .et
- Mains voltage 220V/50Hz
- Democracy index 3.38
- 人口 120283026
- 領域 1104300
- 駆動側 right
- 詳細は「エチオピアの歴史」を参照古代・中世
エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町...続きを読む
もっと読む詳細は「エチオピアの歴史」を参照古代・中世エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。3世紀のものと思われるアクスムの戦勝碑には、ゼウス、ポセイドーン、アレースなど、ギリシャの神々の名が見られる。この事から、この時代のエチオピアは、ギリシャやローマなど、地中海世界の影響を強く受けていたと考えられている[1]。
全盛期は4世紀で、この頃はコプト正教会伝来の影響が見られ(コプト正教会伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスムはヒジュラで預言者ムハンマドと最初の信者達を匿ったため、イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。アクスム王国は、10世紀頃にベタ・イスラエル[注釈 1]の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族のザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。
エチオピア帝国詳細は「エチオピア帝国」を参照エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガスト(「王(ネグス)の中の王」という意味)と呼ばれた。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。
ザグウェ朝ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年–1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。
ソロモン朝イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。
諸公侯時代しかし、16世紀以降ムダイト朝オーッサ・スルタン国(1734年–1936年)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。
ソロモン朝の中興諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末にイタリアの侵略を二度受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。
1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法を大日本帝国憲法を範として制定した[2]。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカのマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると見なすラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた。
イタリア領東アフリカ詳細は「イタリア領東アフリカ」を参照しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシスト・イタリアの統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口が4,200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日にイタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した[3]。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦いで毒ガスを使用して、近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経て英国ロンドンに亡命、1936年5月5日にピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した[4]。
首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇する分割統治策を採用した。その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った[5]。
イギリス軍政とソロモン朝復古独立1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発。1940年6月10日、ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは枢軸国側で参戦し、イギリスなど連合国と戦いを繰り広げた。 エチオピアを占領していたイタリアは、イギリスとの間で東アフリカ戦線を戦ったが、アフリカ大陸におけるイタリアの勢力は退潮気味となった。 間隙を縫うようにイギリス軍がエチオピアに侵攻。1941年4月6日には先遣部隊がアジスアベバに到達した[6]。 その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した[7]。英軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として参戦した。
エチオピア・エリトリア連邦詳細は「エチオピア・エリトリア連邦」を参照戦後の1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[8]。
帝政廃止1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中、1973年に東部のオガデン地方でソマリ人が起こした反政府闘争、および旱魃による10万人の餓死者という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱を起こした。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月に軍のクーデターによって逮捕・廃位させられた。ここに紀元前より続いたエチオピアの君主制は終焉した。
軍はアマン・アンドム中将を議長とするエチオピア暫定軍事政権(Provisional Military Government of Socialist Ethiopia PMGS)を設置して1975年12月に社会主義国家建設を宣言、ソ連の半衛星国となった。 1976年に入ると年率50%に近いインフレーション、エリトリア解放戦線との戦闘、労働者の賃上要求ストライキが続発するなど国内は疲弊した。同年2月と6月には、旧支配部族層によるクーデターも発生したが軍事政権に鎮圧された[9]。 1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任するが、彼が執った恐怖政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。1987年の国民投票でPMACを廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争、オガデン戦争)の結果、メンギスツは1991年5月にジンバブエへ亡命した。
エリトリアの独立・メレス政権1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線(EPLF) は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。
オガデンの反乱詳細は「オガデンの反乱」を参照エチオピア・エリトリア国境紛争詳細は「エチオピア・エリトリア国境紛争」を参照1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国際連合安全保障理事会は国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定した。
2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
東アフリカ大旱魃詳細は「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照ハイレマリアム政権2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任した。
アビィ・アハメド政権2018年4月2日、ハイレマリアム首相の辞任を受け、後任の首相にアビィ・アハメドが就任[10]。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる[11]。
就任以降、対立構造のあった隣国エリトリアとの和解交渉を始め、2018年9月5日にはエリトリアの首都アスマラで、エリトリアとソマリアとの3カ国による「包括協力協定」に署名。さらに同年9月16日、サウジアラビアの仲介によりエチオピアとの間で「ジッダ平和協定」に署名した[12]。2019年10月11日、エリトリアとの和平を成し遂げたことが評価され、アビィ首相にノーベル平和賞が授与された。同年12月、アビィは新党繁栄党の結成を発表し、エチオピア人民革命民主戦線(ティグレ人民解放戦線を除く)と地方の有力政党が参加した[13]。繁栄党の結成はエチオピア政府が掲げる連邦民族主義と見做されており、ティグレ人民解放戦線をはじめとした地域主義・民族主義勢力は反発し緊張が高まった[14]。
ティグレ紛争詳細は「ティグレ紛争」および「エチオピア内戦 (2018年-) 」を参照「オロモ紛争」および「ベニシャングル・グムズ紛争」も参照2020年8月に北部ティグレ州において総選挙が延期したことを契機に州与党ティグレ人民解放戦線(TPLF)との軋轢が増し、2020年11月にはTPLFが政府軍の基地を攻撃したとして開戦を宣言し、政府軍による空爆を含めた攻撃を開始した[15]。戦闘によって市民にも多数の被害が出ており、11月9日に州西部の町マイカドルで600人近い市民が虐殺された[16][17]。戦火の拡大に伴い多数の難民が発生し、隣国スーダンへは11月14日から2日間で約2.5万人が流入[18]。またTPLFは政府への協力を理由に、隣接しているアムハラ州と隣国エリトリアの首都アスマラの空港にロケット弾攻撃を実施し[19]、近隣地域にも影響・被害が広がっている。ティグレ州以外でも各地でオモロ解放戦線など民族系反政府勢力が国軍と戦闘を続けており、内戦の様相を呈している[20]。
2021年に体制を整えなおしたTPLFは反攻に転じて北部各州を占拠。南下しながら首都への攻撃も示唆したため、エチオピア政府は同年11月2日に国家非常事態宣言を発出した[21]。12月下旬からはTPLFは北部ティグレ州に撤退し、2022年2月15日、エチオピア人民代表議会は国家非常事態宣言の解除を可決した[22]。
^ 橘玲 (2019年10月4日). “エチオピアは、ユダヤ教と原始キリスト教、7世紀からはイスラーム、そして今はプロテスタントが共存するまれにみる「宗教多様性」の国”. ZAI ONLINE2019年12月22日閲覧。 ^ 古川哲史「結びつく二つの「帝国」――大正期から昭和初期にかけて」『エチオピアを知るための50章』(岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、初版第1刷)299-306頁 ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)207-219頁 ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)219-229頁 ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)231-239頁 ^ 英軍、アジスアベバに到着(『朝日新聞』昭和16年4月8日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p389 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)239-240頁 ^ 片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』(叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9)pp.89-93 ^ 「革命三年目のエチオピア 苦境の軍事政権 反政府運動封じに躍起」『朝日新聞』朝刊1976年(昭和51年)9月22日13版7面 ^ Ethiopia PM Abiy Ahmed wants to resolve Eritrea disputes BBC News ^ 「エチオピア、アビー首相就任」『毎日新聞』 ^ “エチオピアとエリトリアが平和協定締結、国境も再開”. ジェトロ (2020年9月19日). 2020年11月27日閲覧。 ^ “Why Abiy Ahmed’s Prosperity Party is good news for Ethiopia”. アルジャジーラ (2019年12月18日). 2020年11月25日閲覧。 ^ “At least 100 killed in border clashes between Ethiopia's Somali and Afar regions - official”. ロイター (2021年4月7日). 2021年11月3日閲覧。 ^ “エチオピア、戦闘で数百人死亡=関係筋”. ロイター (2020年11月10日). 2020年11月13日閲覧。 ^ “エチオピア北部の紛争地で多数の市民虐殺か アムネスティ”. CNN (2020年11月13日). 2020年11月13日閲覧。 ^ “エチオピア北部で市民600人殺害か、人権委員会が報告”. CNN (2020年11月25日). 2020年11月25日閲覧。 ^ “エチオピア人約2.5万人、戦闘逃れスーダンに流入”. AFP通信 (2020年11月16日). 2020年11月25日閲覧。 ^ “エチオピア戦闘、隣国に飛び火 エリトリア首都に攻撃”. 日本経済新聞 (2020年11月16日). 2020年11月25日閲覧。 ^ “Leaked EU Diplomatic Cable: DELEGATION OF THE EUROPEAN UNION TO ETHIOPIA”. scoop.co.nz (2021年8月25日). 2021年11月3日閲覧。 ^ “エチオピアが非常事態宣言 内戦緊迫、市民に自衛呼びかけ”. 毎日新聞 (2021年11月3日). 2021年11月3日閲覧。 ^ “エチオピアで国家非常事態宣言を解除、正常化へ前進(エチオピア) | ビジネス短信”. ジェトロ. 2022年2月20日閲覧。
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