のコンテキスト イスラエル

イスラエル国
מדינת ישראל
دولة إسرائيل
国の標語:不明
国歌: התקווה (ヘブライ語)
希望

イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل‎、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエル(ヘブライ語: יִשְׂרָאֵל‎)は、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、東と西はパレスチナ自治区のヨルダン川西岸とガザ地区、南西はエジプトと国境を接している。

実質...続きを読む

イスラエル国
מדינת ישראל
دولة إسرائيل
国の標語:不明
国歌: התקווה (ヘブライ語)
希望

イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل‎、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエル(ヘブライ語: יִשְׂרָאֵל‎)は、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、東と西はパレスチナ自治区のヨルダン川西岸とガザ地区、南西はエジプトと国境を接している。

実質的な首都はテルアビブであり、経済と技術の中心地をなす。一方、イスラエルの基本法はエルサレムを首都と規定しているが、エルサレムに対する国家の主権は国際的には限定的にしか認められていない。

詳細について イスラエル

基本情報
  • 通貨 新シェケル
  • 母国語表記 ישראל
  • 呼び出しコード +972
  • インターネットドメイン .il
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 7.84
Population, Area & Driving side
  • 人口 9840000
  • 領域 20770
  • 駆動側 right
履歴
  • 古代
     
    イスラエル王国とユダ王国

    古代にはこの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいた...続きを読む

    古代
     
    イスラエル王国とユダ王国

    古代にはこの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいた。ユダヤ人の祖先となるヘブライ人も移住してきたが、子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となっていった。長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人(イスラエル人)はこの地を征服し、紀元前11世紀頃にイスラエル王国が成立した[1]。しかし紀元前930年頃、内乱のためイスラエル王国は南北に分裂した。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされた[2][3]。新バビロニアもペルシア帝国に滅ぼされ、その後、パレスチナの地はアレクサンダー大王の東方遠征により征服される。アレクサンダー大王の死後、マケドニアは分裂し、パレスチナはセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入るが、マカバイ戦争を経てユダヤ人の王朝であるハスモン朝が成立する[4]。紀元前1世紀にハスモン朝はローマ帝国の保護国となり、のちにローマ帝国の属州(ユダヤ属州)となる[5]。西暦66年には独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発するが、70年にローマ帝国により鎮圧された[6]。132年にバル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時はユダヤ人による支配権を取り戻したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧され、名称もシリア・パレスティナ属州に変わった[7][8][9]。離散ユダヤ人(ディアスポラ)は早い時期から存在したが、この時に数多くのユダヤ人がディアスポラとなっていった[10]。

    中世
     
    エルサレム攻囲戦(1099年)

    636年に東ローマ帝国が正統カリフに敗北し、以後、第一次世界大戦におけるオスマン帝国の敗退までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになる。1099年に第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。しかし1187年、ヒッティーンの戦いでアイユーブ朝に破れエルサレムを再占領されると、1200年頃にはエルサレム王国の支配地域は地中海沿いのみとなっていた。わずかな支配地域を維持していたエルサレム王国は、1291年にマムルーク朝により完全に滅亡した。1517年にはオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしこの地方を支配した[11]。

    シオニズムの興隆

    1834年にセルビアに住むセファルディム系の宗教的指導者イェフダー・アルカライが小冊子を発行し、聖地での贖罪を前提とした帰還を唱えた[12]。こうした宗教的意味合いの強い宗教的シオニズム(英語版)とは別にモーゼス・ヘスは1862年、反ユダヤ主義への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えた。これは世俗的(政治的)シオニズムと呼ばれる[13]。

    1882年に第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意)が始まる。東ヨーロッパから2万5000人[14]から3万5000人[15][16]のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住した。のちにシオニズム運動を主導していくテオドール・ヘルツルは同化主義者であったが、ユダヤ人が冤罪で逮捕されたドレフュス事件を新聞記者として取材し、ユダヤ人に対する差別に衝撃を受け民族主義者へと転じた[17][18]。このころからシオニズムという言葉が現れるようになる[19]。ヘルツルはオスマン帝国のスルタンアブデュルハミト2世を含む、各国の要人たちにユダヤ人国家設立を請願した[20][21]。このころ、東欧やロシア帝国ではユダヤ人が虐殺されるポグロムが繰り返し発生していた[22]。

    1897年にはスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、世界シオニスト機構が設立された[23]。1904年から始まった第二次アリヤーでは4万人ほどが移住し[24][16]、1909年にはルーマニアからの移民がテルアビブを建設した[25]。ヘルツルは「ユダヤ人国家」の候補地としては必ずしもパレスチナにこだわってはおらず、初期にはアルゼンチンやウガンダも挙がっていたが、「シオンなきシオニズム」はあり得ないとされ、パレスチナ以外の選択肢は存在しなくなった[26][27]。

    イギリス委任統治領パレスチナ
     
    サイクス・ピコ協定により分割された中東

    1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国の三国同盟側で参戦する。イギリスは戦争を有利に進めるため、「三枚舌外交」と呼ばれる数々の密約を結んだ。フランスやロシアとはサイクス・ピコ協定を結び、アラブ人とはフサイン=マクマホン協定を結んだ。そしてユダヤ人に対してはバルフォア宣言を行った[28]。これは1917年11月2日、英国外相バルフォアがユダヤ人の民族郷土建設について支持を表明したもので、ロスチャイルド卿に宛てた書簡に記されていたものである[29]。

    1918年10月30日、オスマン帝国は降伏し、イギリスの占領統治が始まった。1922年には国際連盟で定められた委任統治制度により、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。施政を担当する初代高等弁務官にはユダヤ人のハーバート・サミュエルが就いた。この委任統治決議の文書には、バルフォア宣言を再確認する文言が含まれていた[30]。アラブ人はバルフォア宣言の撤回を要求し続け、イギリスの提案する立法評議会への協力やアラブ機関の設立などを頑なに拒否した[31]。その間にもユダヤ人は移民を進め、ユダヤ機関の設立、自警組織ハガナーの結成、ヘブライ大学の開校など、ユダヤ人国家建設に向けてパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティー(イシューブ)を着実に大きくしていった[32]。

    1929年、嘆きの壁事件が発生した。アラブ人によるユダヤ人襲撃が行われ、133名のユダヤ人が殺害され339名が負傷した。アラブ人にも110名の死者が出たが、そのほとんどはイギリスの警察や軍によるものだった[33]。この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣した。調査委員会はどちらも、事件の要因はユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人がそれに脅威を感じたこととし、ユダヤ人の移民と土地購入について再検討を勧告した。一時は勧告に従った白書が出るものの、ユダヤ側の反発に遭って撤回され、方針が変わることはなかった[34][35]。

    1936年、アラブ人によるユダヤ人襲撃とその報復が引き金となり、アラブ反乱が発生する。イギリスはピール調査委員会を派遣し、パレスチナの分割を提案した。ユダヤ側は国家創設の足がかりとしてこれを受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した[36]。調査委員会の活動が終わると、再びパレスチナ全土で反乱が起こり、1939年に収束するまでに、アラブ人に多数の死傷者と逮捕者を出した[37]。

    1939年5月に、イギリス政府の方針を大きく変えるマクドナルド白書が出される。この白書は移民および土地売買に関して制限を設けるものであった[38]。アラブの主張に沿った方針であったが、アラブ人はイギリスをもはや信用せず拒絶し、当然ユダヤ人も拒否しイギリス政府に対する不信を強めることになった[39]。ユダヤ人はアラブ反乱からさらなる防衛力の必要性を感じ、またイギリス政府の方針変更に武力で抵抗するため、ハガナーやイルグン、レヒといった武装組織を強化していった[40]。

    第二次世界大戦が始まり、ナチスのホロコーストがイシューブに伝わり、多くのユダヤ人を震撼させた。ユダヤ人にとってパレスチナへの避難は急を要したが、イギリスは移民制限を変えることはなかった。しかしながら、戦時中はユダヤ人の反英闘争は鳴りを潜め、義勇兵としてイギリス軍とともに戦った[41][42]。戦争が終わるとイギリス政府はアメリカに共同調査委員会の設立を提案し、英米調査委員会が設立された。委員会は強制収容所にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告したが、イギリス政府はこの勧告を受け入れず移民制限を変更しなかった。これを受け、キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件などユダヤ人過激派の反英闘争が激化することとなった[43]。

    建国と第一次中東戦争

    ついにイギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題について国際連合の勧告に委ねることにした。国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案と連邦制国家とする案が出たが、最終的に分割案が国連総会で採択された[44][45]。イギリスは「1948年5月15日をもって委任統治を終了する」とした。イギリスは紛争への介入を止め、両陣営の相手に対する攻撃は活発となった。ベン・イェフダ通り爆破事件(死者ユダヤ人55名)とその報復で起こったレホヴォトの列車爆破事件(死者イギリス人28名)やデイル・ヤシーン事件(死者アラブ人100名以上)、ハダサー医療従事者虐殺事件(死者ユダヤ人70名以上)など、ユダヤ人・アラブ人双方による襲撃事件が多発した[46]。

    緊迫した状況であったが、ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行った[47]。

     
    第一次中東戦争

    これに対しアラブ諸国は、パレスチナ人を支援するため軍隊を動員し、5月15日、パレスチナに侵攻、第一次中東戦争が勃発した。装備が整っていなかったイスラエル軍は苦戦を強いられるもののアラブ諸国の軍を食い止め、両陣営は5月29日の国連の停戦呼びかけに応じて6月11日から4週間の停戦に至った[48]。イスラエルはこの期にハガナーを中心とした軍の再編成を行い、イスラエル国防軍を創設した。国連特使のフォルケ・ベルナドッテがパレスチナの問題解決のため新たな連邦案を提案したが、イスラエル・パレスチナ双方ともに受け入れることはなかった。彼は9月17日にイスラエルの過激派レヒによって暗殺された。イスラエルには非難が集まり、レヒとイルグンの解体につながった[49]。1949年2月24日、イスラエルはエジプトと休戦協定を締結した。続いて、レバノンと3月23日、トランス・ヨルダンと4月3日、シリアとは7月20日にそれぞれ休戦協定を結び、第一次中東戦争は終結した[50]。イスラエルの兵力は開戦当初3万人ほどであったが、終戦時には11万人近くになっていた。また、戦争前の内戦状態から戦時中にかけ数十万人ものパレスチナ難民が発生することとなった[51]。こうした難民が放棄していった財産は、1950年の不在者財産没収法により、イスラエルに没収された[52]。エジプトはガザ地区に軍隊を駐留させ、ヨルダンは1950年にヨルダン川西岸地区を領土に編入した[53]。

    イスラエルは1949年5月11日に国際連合の加盟を承認された[54]。

    第二、第三次中東戦争

    1956年10月29日、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が勃発した。エジプトの敗北は目前と思われたが、この侵攻はアメリカとソビエト連邦という超大国たちの猛烈な反発を招き、結局11月8日に停戦した[55]。

    1960年5月11日、イスラエル諜報特務庁(モサド)はナチスのホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンの身柄を確保した。裁判はメディアによって大々的に報道された。1961年12月15日、アイヒマンに死刑が宣告され、翌年5月31日に刑が執行された[56][57]。

     
    第三次中東戦争にて占領した地域

    1967年5月、エジプトはティラン海峡を封鎖した。これに対しイスラエルは6月5日に奇襲攻撃を仕掛け、エジプト軍航空機のほとんどを離陸前に破壊した。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンからエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸を奪い取り、その領土は戦前の3.5倍にもなった。6月10日、この第三次中東戦争はわずか6日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わった[58][59]。1967年11月22日、国際連合安全保障理事会は、イスラエルが占領した領地からの撤退を求める内容を含んだ国連安保理決議242号を全会一致で採択した[60]。この決議は中東和平の基本的枠組みとなっていくが、条文が曖昧といった問題をはらんでいた。イスラエルはこの決議に対し、「すべての」占領地域から撤退するとは書かれていないと主張した[61]。

    1950年代の終わり頃、パレスチナ側ではヤーセル・アラファート率いるファタハが結成された。またアラブ諸国主導でパレスチナ解放機構(PLO)が設立された。当初PLOは過激な武装闘争グループではなかったが、アラファートがトップに立つと、その性格を過激なものに変えていった[62]。PLOはヨルダンを活動拠点としていたが、次第に関係が悪化し1970年9月17日ヨルダン軍はPLOを攻撃、内戦状態となった。これは「黒い九月事件」と呼ばれ、過激派組織「黒い九月」はここから名称をとっている。黒い九月は1972年9月5日に、ミュンヘンオリンピック事件を引き起こしている[63]。

    ミュンヘンオリンピック事件後の1972年9月16日、イスラエル軍は空・陸からレバノン領に侵攻。レバノン南部にあるアラブ・ゲリラの基地、拠点群を攻撃後、短期間でイスラエル領内へ引き揚げている[64]。

    第四次中東戦争からインティファーダ

    1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争が始まった。開戦当初、エジプトとシリアは不意を突き、イスラエルに大きな損害を与えたが、その後の反攻でイスラエルは前線を押し戻した。10月22日には停戦を要求する国連安保理決議338号が採択され、戦争は終結に向かった。イスラエル国内では先制されたことに対し軍と政府に批判が集まり、首相ゴルダ・メイアが辞任することになった[65]。

     
    エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相

    エジプトのサダト大統領は、アラブの大統領として初めてイスラエルを訪問し、11月20日、イスラエルの国会であるクネセトで演説を行った[66]。

    1978年9月5日から、米国メリーランド州キャンプ・デービッドにおいて、カーター米国大統領、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相の三者会談が開かれ、キャンプ・デービッド合意が成立した。イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意であり、サダトとベギンは平和貢献を認められ1978年のノーベル平和賞を共同受賞している。1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。当事者であるパレスチナ人は「合意内容はイスラエルの主張寄りであり[67]、パレスチナ人のためのものではなく、エジプトとイスラエルのための合意である」と合意に反対した[68]。1981年10月6日、サダトはイスラム過激派により暗殺された。

    1981年6月、イスラエルはイラクの核兵器開発を阻止すべく、イラクの原子炉を攻撃した(イラク原子炉爆撃事件)[69]。

    1978年3月と1982年6月の2度にかけて、イスラエルはレバノンの首都ベイルートに本部を移したPLOを駆逐し、内戦中であったレバノンの少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立を目指し、レバノン侵攻を開始した。シャロン国防相に率いられたイスラエル軍とレバノンの同盟勢力ファランヘ党は、PLOをベイルートから追放し、ファランヘ党のバシール・ジュマイエルがレバノンの大統領に選出された。しかしジュマイエルは就任直前に暗殺され、ファランヘ党員は報復のためサブラ・シャティーラ難民キャンプに侵入し、数百人とも3,000人ともいわれる非武装の難民を虐殺した(サブラー・シャティーラ事件)[70][71]。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任した。

    1987年12月、イスラエル軍の車両が、アラブ人の労働者を乗せた2台の車と衝突して4人が死亡したことをきっかけに、民衆蜂起(インティファーダ)が起こった。民衆はバリケードを築き、投石を行い、火炎瓶を投げた。イスラエル当局はこれを鎮圧し、死傷者も出たが、インティファーダは全占領地に広がった。インティファーダには大人だけでなく子どもも参加した。武装した兵士に立ち向かう少年の映像が報道され、国際的な非難がイスラエルに集まった[72]。国連安保理は1987年12月22日、イスラエルを非難する決議を採択した[73]。1988年7月、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の主権を放棄し、それに伴い1988年11月、PLOはエルサエムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言した[74]。

    1991年、湾岸戦争が勃発し、イラクによるスカッドミサイルの攻撃を受けたが、イスラエルの報復攻撃は行われなかった[75]。

    オスロ合意から現在
     
    左からヤーセル・アラファート、シモン・ペレス、イツハク・ラビン(1994年のノーベル平和賞受賞時)

    1992年、米ソ共催によるマドリード中東和平国際会議が開かれた。同年、パレスチナとの和平交渉に前向きな姿勢を見せるイツハク・ラビンが首相に選出された。また、ノルウェーの仲介によりパレスチナとの交渉が進められ、1993年9月13日にオスロ合意が成された。PLOはイスラエルを国家として承認し、イスラエルもまたPLOをパレスチナ人の代表として認め、パレスチナ人の暫定的な自治を認めるものだった[76]。この功績からヤーセル・アラファート、イツハク・ラビンと外務大臣のシモン・ペレスはノーベル平和賞を共同受賞している。しかし、イスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めなかった。イスラエル人のバールーフ・ゴールドシュテインがヘブロン事件を起こし29人を殺害すると、報復にハマースが自爆テロを何度となく繰り返し起こした[77]。このような状況下であったが、ラビンはさらなる和平に向けてオスロIIに向けて邁進し、1995年9月、調印を行った。オスロIIはイスラエル国内の批判も大きく、野党からはラビンを売国奴と罵る者もいた[78]。1995年11月4日、平和集会に参加していたラビンはユダヤ人学生に射殺された[79]。

    その後も、自爆テロを含むテロ行為が、ハマースなどによって絶え間なく引き起こされた。2000年9月にはアリエル・シャロンのエルサレム、アル=アクサー・モスク(神殿の丘)訪問をきっかけにアル・アクサ・インティファーダ(第2次インティファーダ)が起こった[80]。

    2002年に、テロリストの侵入を阻むため、分離壁の建設を開始した。

    2006年7月12日、ヒズボラの攻撃に対し、報復として拠点を破壊すべくレバノンに侵攻した。2008年12月27日、ハマース掃討のためガザ地区に大規模な空爆を実行、翌年1月には地上からの侵攻も開始した。この攻撃で民間人にも犠牲者が出た[81]。

    2016年12月23日、国連安保理でイスラエルのパレスチナ占領地への入植活動を「法的な正当性がなく国際法に違反する」とし「東エルサレムを含む占領地でのすべての入植活動を迅速かつ完全に中止するよう求める」決議が採択され、賛成14票、反対1票で可決された。同様の決議に対ししばしば拒否権を行使していたバラク・オバマ政権下のアメリカは今回は棄権した[82]。この決議の後にネタニヤフ首相は、賛成した10か国の大使を呼び出して直接注意し、外務省に対して、(賛成した14か国のうちイスラエルと外交関係にある)12か国(日本、イギリス、フランス、ロシア連邦、中国、ウクライナ、アンゴラ、エジプト、ウルグアイ、スペイン、セネガル、ニュージーランド)との外交関係を制限するように命じた[83]。

    イスラエル建国70周年を迎えた2018年5月14日、ドナルド・トランプ政権下のアメリカは在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。これを受け、パレスチナとイスラエルとの軍事衝突が一時的に拡大した。アメリカ大使館の移転に続いて、グアテマラとパラグアイも大使館をエルサレムに移転した[84]。

    2018年7月19日、クネセトは、イスラエルを「ユダヤ人の国家」と定義する法案の採決を行い、これを採択した[85]。この「ユダヤ国民国家法」はエルサレムを「統一された首都」と位置づけ、公用語はヘブライ語のみとしてアラビア語を除外した。このためアラブ系議員らは抗議し、賛成62人、反対55人だった[86]。

    2022年5月11日、カタールの衛星放送局は取材中のパレスチナ人記者が銃撃されて死亡したと発表した[87]。シリン・アブアクレ記者は西岸地区ジェニンの難民キャンプで同日朝、イスラエル軍による「対テロ作戦」を取材中、頭部に銃撃を受け、まもなく死亡が確認された。公開された映像において記者は「プレス(報道)」と書かれた防弾チョッキを着用していたため、意図的だと非難された。イスラエルの国防相は確認できていないとした。記者の葬儀がエルサレムで行われたが、イスラエルの治安部隊が参列者のパレスチナ人に衝突し、けが人が出る事態となった。EUは、「葬列の最中に起きた出来事やイスラエル警察の過剰な武力行使にぞっとする」と非難する声明を発表した[88]。

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