のコンテキスト モーリタニア

モーリタニア・イスラム共和国
الجمهورية الإسلامية الموريتانية
国の標語:Honneur, Fraternité, Justice
(フランス語: 名誉、友愛、正義)
国歌:نشيد_وطني_موريتاني(アラビア語)
モーリタニア国歌

モーリタニア・イスラム共和国(モーリタニア・イスラムきょうわこく、アラビア語: الجمهورية الإسلامية الموريتانية‎)、通称モーリタニアは、アフリカ北西部に位置する共和制国家。 北西に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、北東にアルジェリア、東と南にマリ、南西にセネガルと国境を接し、西は大西洋に面する。 大西洋沖の西にはカーボベルデが存在する。 首都はヌアクショットである。 2015年の人口は約406.8万人。

アフリカ世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグリブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。

モーリタニア・イスラム共和国
الجمهورية الإسلامية الموريتانية
国の標語:Honneur, Fraternité, Justice
(フランス語: 名誉、友愛、正義)
国歌:نشيد_وطني_موريتاني(アラビア語)
モーリタニア国歌

モーリタニア・イスラム共和国(モーリタニア・イスラムきょうわこく、アラビア語: الجمهورية الإسلامية الموريتانية‎)、通称モーリタニアは、アフリカ北西部に位置する共和制国家。 北西に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、北東にアルジェリア、東と南にマリ、南西にセネガルと国境を接し、西は大西洋に面する。 大西洋沖の西にはカーボベルデが存在する。 首都はヌアクショットである。 2015年の人口は約406.8万人。

アフリカ世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグリブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。

詳細について モーリタニア

基本情報
  • 呼び出しコード +222
  • インターネットドメイン .mr
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 3.92
Population, Area & Driving side
  • 人口 4614974
  • 領域 1030700
  • 駆動側 right
履歴
  •  
    ガーナ王国の領域と当時の交易路(11世紀)

    8世紀(4世紀との説もある)ころから、国土の南東部に残されたクンビ=サレー(英語版)を首都として、ガーナ王国が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。このようなサハラ越えの隊商交易の利を押さえようとしたムラービト朝に1077年に滅ぼされるまでその繁栄は続いた。

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    ガーナ王国の領域と当時の交易路(11世紀)

    8世紀(4世紀との説もある)ころから、国土の南東部に残されたクンビ=サレー(英語版)を首都として、ガーナ王国が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。このようなサハラ越えの隊商交易の利を押さえようとしたムラービト朝に1077年に滅ぼされるまでその繁栄は続いた。

    世界遺産にもなっているシンゲッティ(シンキート)、ウアダン、ティシット、ウアラタの隊商都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが滅亡した11〜12世紀にも繁栄を続けた。シンゲッティは、モーリタニア北西部に位置し、古くからシンゲッティ王国の首都であったが、12世紀ごろになるとメッカの巡礼地の出発点となり、イスラム学者、学生、修道士などが集まる文化都市となった。シンゲッティ北東約100kmに位置するワーダーンは、マリ帝国で産出する金や北西約200kmに位置するイジルの岩塩から採取される塩の取り引きのための中継地にあたるため、その交易の利で12世紀ころから数百年にわたって繁栄した。内陸部のティシートもムラービト朝やムワッヒド朝の外周都市としてやはりイジルの岩塩によって繁栄した。16世紀にオウド=ベラ族に要塞都市に造り替えられた。その後、交易路が変わったために衰退した。

    フランス植民地時代

    19世紀末には南のセネガルを植民地化したフランスの進出が始まり、1904年には全域が植民地化され、フランス領西アフリカの一部となった。ただしモーリタニアには都市らしい都市が存在しなかったため、首都はセネガル植民地北部のサン・ルイに置かれていた[1]。

    1946年には本国議会への参政権が与えられると同時に植民地議会が開設され[1]、1958年にフランス共同体が発足すると、共同体内の自治国となった。またこの年、中部の海岸にサン・ルイに代わる将来の首都になるべき都市としてヌアクショットが建設された。「アフリカの年」こと1960年11月28日に、アフリカ諸国の独立が進む中で独立を達成した。

    独立後

    初代大統領にはモーリタニア再編党のモフタール・ウルド・ダッダが就任した。1960年の独立の翌1961年に憲法が制定された。フランス第五共和政と同様に、大統領の権限が強いものであった。またこの時、再編党が残存他政党を吸収してモーリタニア人民党へと改組され、一党制が確立した[2]。1965年の憲法改正では一党独裁、社会主義政権の方針が規定された。ダッダ政権は当初は親フランスであったが徐々にアラブ圏へと軸足を移していき、1973年にはCFAフラン圏を脱退して独自通貨ウギアを導入する[3]とともに、アラブ連盟へと加盟した[1]。

    ダッダ政権は大モーリタニアを掲げ、モロッコと共に西サハラの領有権を主張し、1975年に南部を占領してポリサリオ戦線と対立した。しかし、兵力わずか2500人の国軍とポリサリオ戦線との戦いによる負担は重く、国境沿いに位置するズエラット鉄鉱山やモーリタニア鉄道といった産業施設を攻撃されて経済は混乱。宗主国のフランスからの支援を仰ぐものの、突破を許して首都ヌアクショットまで攻撃を受けるなど劣勢となった。1978年7月10日、和平を望んだ軍参謀長のムスタファ・ウルド・サレクがクーデターを起こしてダッダや閣僚らは失脚して拘束。一党独裁体制を敷いてきたモーリタニア人民党と議会は軍部により解散させられた[4]。しかしサレクはモロッコとの連携を重視して戦線との戦闘を続けたため混乱は続き、翌1979年4月にモハメド・クーナ・ウルド・ハイダラがサレクを追い落として実権を握り、同年ポリサリオ戦線との和平協定が結ばれた。

    タヤ政権

    和平は成立したものの、ハイダラ政権も安定せず、1984年にはクーデターでマーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤが政権を掌握した。1989年にモーリタニア・セネガル国境紛争(英語版)が勃発し、数万人に及ぶ両国国民が相互に両国国内から追放された[5]。タヤ大統領は、1991年に複数政党制を導入して民政移管を行い、1992年及び1997年の大統領選挙で勝利を収めた。

    2000年には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された[6]。2004年にはサバクトビバッタの大量発生 (2004年)(英語版)が発生している。

    アブダライ政権

    2005年8月にはタヤ大統領不在時に軍部が無血のクーデターにより政権を掌握した。その結果「正義と民主主義のための軍事評議会」が設置され、民政移管を公約に掲げた。この公約は実行され、2006年6月25日には憲法改正国民投票が実施され、有効投票の約97%が改正を承認。政権交代の原則が公認される。11月から12月にかけて国民議会・地方議会、2007年1月に上院議会のそれぞれの議員選挙が行われた。2007年3月11日に大統領選挙第1回投票が行われ[7]、3月25日に決選投票が行われた[8]結果、シディ・モハメド・ウルド・シェイク・アブダライ元水産相が新大統領に選出された[9]。

    アブデルアズィーズ政権

    2008年8月6日、軍事クーデターが発生し、アブダライ大統領、ワクフ首相、内相が軍に拘束されていると報道された[10][11]。また、クーデター実行部隊は同大統領らを拘束したムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ大統領警護隊長を議長とする「高等国家評議会」の樹立を宣言した[12]。このクーデターについて、欧米各国、アフリカ連合、アラブ連盟は非難声明を出し、アブダライ大統領を権力に復帰させるよう求めた。高等国家評議会は、2009年6月に民主化のための選挙を行うと表明。2008年12月には、拘束されていたアブダライ大統領をはじめとする旧政府要人が解放されたが、2009年1月には現政権支持派によるアブダライ批判デモが起こるなど、不安定な状態が続いた。

    2009年6月実施予定の大統領選に出馬するため、アブドゥルアズィーズは2009年4月に軍政トップを辞任した。大統領選は予定通り6月に実施され、アブドゥルアズィーズが当選した。2014年の大統領選挙でもアブドゥルアズィーズは再選された[13]。

    2019年6月の大統領選挙で、アブドゥルアズィーズ側近のガズワニが当選した[14]。

    ^ a b c 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p589、朝倉書店 ISBN 4254166621 ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p591、朝倉書店 ISBN 4254166621 ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p586、朝倉書店 ISBN 4254166621 ^ モーリタニアでクーデター 軍事委が全権握る 親ソ派勢力介入か『朝日新聞』1978年7月11日朝刊、13版、7面 ^ 「セネガルとカーボベルデを知るための60章」p107-108  明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、小川了編著、2010年3月。ISBN 4-7503-1638-5 ^ Palin, Michael; Pao, Basil (16 June 2005). Sahara. Macmillan. pp. 85–. ISBN 978-0-312-30543-7. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2193896 「民主主義への移行の最終段階 大統領選挙投票 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月12日 2018年11月3日閲覧 ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2201228 「大統領選挙、決選投票開始 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月26日 2018年11月3日閲覧 ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2201836 「大統領選挙決選投票、元閣僚アブドラヒ氏が当選 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月27日 2018年11月3日閲覧 ^ BBC World,Breaking News ^ http://www.cnn.co.jp/world/CNN200808060035.html ^ “モーリタニアでクーデター 軍が大統領ら拘束”. 47NEWS. 共同通信. (2008年8月6日). オリジナルの2014年8月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140818111915/http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080601000915.html 2011年2月19日閲覧。  ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行 ^ ガズワニ氏が勝利
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