のコンテキスト シリア

シリア・アラブ共和国
الجمهوريّة العربيّة السّوريّة
国の標語:なし
国歌:祖国を守る者たちよ

シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة العربيّة السّوريّة‎)、通称シリアは、中東のレバントに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカスで、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。

詳細について シリア

基本情報
  • 通貨 シリア・ポンド
  • 母国語表記 سوريا
  • 呼び出しコード +963
  • インターネットドメイン .sy
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 1.43
Population, Area & Driving side
  • 人口 18499181
  • 領域 185180
  • 駆動側 right
履歴
  •  
    紀元前10世紀の建築を原型とするアレッポ城
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    紀元前10世紀の建築を原型とするアレッポ城
    アケメネス朝 アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。セレウコス朝 紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。 紀元前304年 - インド領からの撤退が始まる。 紀元前301年 - シリア地方獲得。 紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。 紀元前274年〜紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争。 紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。ローマ帝国 紀元前64年 - ローマ軍首都制圧。シリア属州として併合され、セレウコス朝滅亡。イスラム帝国

    661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。

    セルジューク朝

    ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。

    十字軍国家
     
    1135年のシリア地方

    1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国をはじめとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。

    アイユーブ朝

    1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。

    モンゴル帝国 モンゴル帝国、イルハン朝。マムルーク朝エジプト オスマン帝国 15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト(英語版))。 アラブ反乱(1916年 - 1918年)OETA 1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。独立・シリア王国 1920年3月8日 - シリア・アラブ王国(英語版)が独立し、ファイサル1世が初代国王として即位。 1920年7月24日 - フランス・シリア戦争(英語版)でフランスが占領。フランス委任統治領シリア
     
    フランス委任統治領シリア
    1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる。 1920年9月1日 - ダマスカス国(英語版)ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を含む)、アレッポ国(英語版)アレキサンドレッタ地区(英語版)を含む)、大レバノンに分離・分割。 1920年9月2日 - アラウイ自治地区(英語版)を分離・分割。 1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を分離・分割。 1921年10月20日 - アンカラ条約によりアレキサンドレッタ地区(英語版)が成立。 1936年9月 - フランス・シリア独立条約(英語版)交渉でフランスが批准を拒否。 1938年9月7日 - ハタイ共和国(英語版)(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)独立・シリア共和国 1946年 - シリア共和国(英語版)としてフランスより独立[1]。同年、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。 1949年 - 1949年3月クーデター(英語版)によりフスニー・アル=ザイームが政権を握るが、同年8月に打倒されハーシム・アル=アターシーの挙国一致政権が成立する。 1951年 - 12月にアディーブ・アル=シーシャクリーによるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立する。 1952年 - 再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止する。 1954年 - ドゥルーズ派による反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、1954年クーデター(英語版)により、シーシャクリー政権が打倒される。 1957年 - ソ連との間に経済技術援助協定が締結される。アラブ連合共和国 1958年 - 2月にエジプトと連合、「アラブ連合共和国」成立(首都:カイロ)。同年3月、北イエメンが連合国家に合流。 1959年 - エジプトによって全政党が解党され翼賛政党へ加入。独立・シリア・アラブ共和国 1961年 - 9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立。バアス党政権樹立 1963年 - 3月8日革命によりバアス党が政権を獲得。 1964年 - ハマー動乱 (1964年)(英語版)、同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺される。 1966年 - 1966年クーデターが起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂。 1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う。ハーフィズ・アル=アサド政権 1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健・現実主義派がクーデター(矯正運動)で実権を握る。 1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出。 1973年 - 第四次中東戦争。 1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。 1980年 - ソビエト・シリア友好協力条約締結。 1981年、ハマー虐殺 (1981年)(英語版)。 1982年、ハマー虐殺。 2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。バッシャール・アル=アサド政権 ダマスカスの春

    一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されていない。その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、個人独裁ではなくバアス党(および衛星政党)による独裁である。バッシャール・アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。

    改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には就任まもないバッシャール・アサドの体制内での権力基盤を強化するためのものでシリアの「民主化」を目的としたものではなかった。事実、2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けると、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、それ以前は一定程度容認されていたデモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。また、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどでいわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、権威主義体制が次々と崩壊したことに脅威を覚えたためだと見られている。その後、2011年のアラブの春を契機とした市民による民主化要求運動を武力で制圧したとことによって、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。

    2005年 - レバノンよりシリア軍撤退。 2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。 2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。シリア内戦
     
    戦闘で破壊された車両(アレッポ、2012年)
     
    ほぼ3分割されたシリアの勢力図、桃色=政府軍、灰色=ISIL、黄色=クルド人勢力、緑=その他の反政府勢力
    2011年 - アラブの春に触発された騒乱が発生、シリア内戦(1月26日)に発展し、継続中。

    2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の2つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement) のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織も作られている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。

    2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、2013年3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。しかし、対照的に防備が薄弱となった東部地域はそのほとんどが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。

    一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続したほか、ヒズボラをはじめとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧し、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用された。一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。

    政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始され、アレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付で発動した。2か月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末ごろからはレバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下に置かれていたホムス旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した。

    2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援を受けて支配地域を確立すると急速に中立化した。ロジャヴァ・クルド人自治区を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。

    しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反体制運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンナ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力や、それまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続いた。特に東部のラッカ県やデリゾール県などでは、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線などが駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・ISIL・政府軍・クルド民兵・アルカーイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線など)・その他のイスラム主義武装集団(イスラーム戦線など)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊やシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。

    これに対し、シリア北部においては、アル=ヌスラ戦線などを中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これを受けて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後2つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域をほとんど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。

    ただし、北部および東部とは対照的に、ダラア県を中心とする南部地域は2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏ごろより県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。さらに反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにもつながりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく、政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラなどとの協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった。このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。

    先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって戦力を著しく損耗させており、兵力不足が以前にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部の都市とそれらを結ぶ幹線の維持による持久戦の指向を示唆。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めたほか、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、すべての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向はますます強まった。具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および、国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて、首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持がもっとも重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部のアラウィー派をはじめ、キリスト教徒、ドゥルーズ派、イスマーイール派など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地であるほか、スンナ派世俗層も多い地域である。また、政府軍の方針に策応したヒズボラは、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国をまたぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部においてISILやアルカーイダ系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部のロジャヴァ・クルド人自治区に対してはトルコ軍がPKK(クルディスタン労働者党)の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日よりロシア軍はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始[2]。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力やISILによって包囲を受けてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、ISILはアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。

    ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとしたNATO諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンナ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象はISILやアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側有志連合が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米のエジプトや従来はアサド政権と敵対していたイスラエル、キリスト教の総本山であるバチカン市国がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており、泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み、国際問題となっている。2015年7月には全人口2,200万人のうち国外への難民は400万人に達している[3]。

    さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラなどの支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、ヒズボラに支えられたシリア政府軍、英米仏を中心としたNATO軍とサウジアラビアやその同盟国(有志連合)に支えられるアルカーイダを含んだ反政府イスラム過激派、そして、イドリブのイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部のアフリーンに侵攻しクルド人勢力を叩くトルコ軍、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦うクルド人勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃するイスラエル軍の5つの勢力によるプロパガンダや偽造工作等の情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。

    2018年4月には、7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東グータ地区を政権軍が掌握[4]。これにより、反政府勢力はアサド政権の中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手立てを完全に失い、少なくともアサド政権の存続は確定的となり、7年にわたる戦争の勝利も濃厚となった。東グータ陥落の直前には「シリア政府軍による化学兵器攻撃が行われた」とする東グータで活動する反政府組織(ホワイト・ヘルメット)の主張をもとに、英米仏によるアサド政権攻撃が行われるも、NATO軍の介入を呼び込むことで逆転に懸けた反政府勢力の意図に反し、軍事作戦は懲罰の意味合い程度の単発的なミサイル攻撃に留まった。

    アサド政権打倒を目指して始まったシリア内戦は、2018年4月の東グータ陥落に伴いアサド政権の存続で一つの区切りを迎えたが、イドリブを中心とした北西部に撤退して抗戦を続ける反政府勢力、北東部を中心に独自の勢力圏を維持するクルド人勢力、これら地域の奪還を目指すアサド政権、各勢力を支援する欧米・ロシア・トルコ・イラン・サウジアラビア、イラン牽制の独自の戦略を持つイスラエルなど、依然としてシリア国内外の勢力がそれぞれの戦略で直接・間接に軍事活動を続けているため、戦闘の主軸はシリア北部へ移動し、戦争の性質はアサド政権によるシリア再統一を目指した反政府勢力の掃討作戦へと転換したものの、戦争勃発から9年が過ぎた2020年3月に至るもいまだに紛争解決の目途は立っていない。

    ^ “Report of the Commission Entrusted by the Council with the Study of the Frontier between Syria and Iraq”. World Digital Library (1932年). 2013年7月8日閲覧。 ^ “ロシア、シリア空爆開始…「対テロ」で政権支援”. 読売新聞. (2015年10月1日). http://www.yomiuri.co.jp/world/20150930-OYT1T50151.html 2015年10月11日閲覧。  ^ “シリア難民、400万人を突破”. 国際連合難民高等弁務官事務所. (2015年7月9日). http://www.unhcr.or.jp/html/2015/07/pr-150709.html 2015年9月5日閲覧。  ^ “シリア反体制派、撤退開始か 首都近郊陥落へ”. 日本経済新聞. (2018年4月2日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28904820S8A400C1FF1000/ 2018年4月14日閲覧。 
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