のコンテキスト タンザニア

タンザニア連合共和国
Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語)
United Republic of Tanzania (英語)
国の標語:Uhuru na Umoja
(スワヒリ語: "自由と統一")
国歌:Mungu ibariki Afrika(スワヒリ語)
神よ、アフリカに祝福を

註1: データは本土のみ
註2: 立法府の議事堂はドドマ、その他の政府官庁はダルエスサラーム
註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007

タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、東アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。

1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。

詳細について タンザニア

基本情報
Population, Area & Driving side
  • 人口 61741120
  • 領域 947303
  • 駆動側 left
履歴
  •  
    キルワ・キシワニの大モスクの遺跡
     
    19世紀半ばオマーン帝国の版図。19世紀のインド洋の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国は、1830年代より東アフリカのザンジバルに本拠地を置いていた。
    有史以前

    250万 - 200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。

    バンツー系の民族移動

    紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーンに相当する地域からバントゥー系民族がタンザニアの森林部に移住した(en:Bantu expansion)。

    イスラームの到来

    7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立したあと、アラブ人やペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀頃から16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島やマフィア島、バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。

    ポルトガル領時代

    1498年にポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。

    オマーン帝国時代

    アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية‎)のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、帝国の本拠地を移した。1856年にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国とは別にサイイド・マージドがザンジバルのスルターンに即位するとザンジバル・スルタン国(Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年)が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部に相当するタンガニーカ湖にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーの探険も助けた。

    イギリス・ドイツ植民地時代
     
    ドイツ領東アフリカ

    1880年代にアフリカ分割が始まると、カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、1890年7月1日にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの保護国とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう1896年のイギリスとの戦争でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。

    一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生したアブシリの反乱の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国ドイツから総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でもルヴマ州のソンゲア・ルワフ・ムバノ率いるンゴニ族とイリンガ州のムクワワ率いるヘヘ族(英語版)が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者ムクワワが率いるヘヘ族(英語版)とのゲリラ戦(1891年 - 1898年)は長期化した。1905年の霊媒師キンジキティレ・ングワレ(英語版)(Kinjikitile Ngwale)が主導するマジ・マジ反乱はンゴニ族も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部からタンガニーカ湖までを結ぶ鉄道(ドイツ語: Tanganjikabahn現在のタンザニア中央鉄道(英語版))は、1905年にダルエスサラームを起点に着工し、1914年には終点キゴマに到達して完成した。

    1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人兵士(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。

    イギリス・ベルギー植民地時代

    第一次世界大戦がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカとなり、東北部のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピー(英語版)に代えて共通通貨東アフリカ・シリング(英語版)が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。

    1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した[1]。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線(英語版)でイタリア軍と、ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人のアスカリが存在した。

    独立と連合
     
    タンザニア連合共和国初代大統領ジュリウス・ニエレレ。「ムワリム」(スワヒリ語で「先生」の意)と呼ばれ、タンザニア人の尊敬を集めている。

    第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(英語版)(TANU)が次第に支持を集め、1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得して独立した。しかし、翌1964年1月にザンジバルで革命が勃発すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中でザンジバル人民共和国が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの汎アフリカ主義の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日にタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した[2]。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化(英語版)の名称を複合し、タンザニア連合共和国と改称した。

    独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレは、内政面ではスワヒリ語を国語とし、1967年のアルーシャ宣言(英語版)発令以後は社会主義の建設を目指し、ウジャマー(英語版)と呼ばれるコンセプトに基づいたアフリカ社会主義を採用した(ウジャマー社会主義)。対外的には東アフリカ諸国を東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げ[3][4][5]、アルーシャを本部とする東アフリカ共同体(第一次)を作り[6]、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権やローデシアの対白人少数派支配に対抗する「最前線」としてザンビアやボツワナとフロントライン諸国(英語版)(FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた[7]。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図るタンザン鉄道の建設などを通じて中華人民共和国との関係を深め、ポルトガルとも敵対し、1964年にモザンビーク独立戦争が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同盟(英語版)(ZANU)を支援している。

    1971年にミルトン・オボテがイディ・アミンのクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国ウガンダとは対立が続いた。

    タンザニア革命党

    1977年にそれまで別組織だったTANUとアフロ・シラジ党(英語版)(ASP)が統合し、タンザニア革命党が成立し、国内でも一党制に移行した。

    1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍はウガンダの首都カンパラを攻略してアミン失脚の一因となった(ウガンダ・タンザニア戦争)。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親西側的なケニアのジョモ・ケニヤッタとの対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。

    1980年代に入ると第二次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。

    経済の自由化

    後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任し、ムウィニの下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また複数政党制が認められて民主化が行われた。1995年に就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。

    1998年8月7日にはアルカイーダによって首都ダルエスサラームの駐タンザニアアメリカ合衆国大使館が攻撃される、アメリカ大使館爆破事件が発生した。

    2005年にはジャカヤ・キクウェテが大統領に就任し、2015年にはジョン・マグフリが大統領に就任した。

    ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.153 ^ “12月9日。今日はタンザニアの独立記念日”. 日本食糧新聞電子版. https://news.nissyoku.co.jp/today/603137 2020年12月9日閲覧。  ^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173 ^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55 ^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58. ^ "TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967" (PDF) (Press release). Kenya Law. 2018-06-030閲覧 |accessdate=の日付が不正です。 (説明) ^ Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. ISBN 9781461672319.
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