Wien

( ウィーン )

ウィーン(標準ドイツ語: Wien  発音〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語: Wean〈ヴェアン〉、仏: Vienne  発音〈ヴィエンヌ〉、英: Vienna 発音〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。9つの連邦州のひとつで、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される。

2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。

第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。

ローマ時代

古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。

ハプスブルク家の帝都  1683年のウィーン 18世紀のウィーン シェーンブルン宮殿 1900年ウィーン国立歌劇場

中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。

ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。

オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。

帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。

第一次大戦と帝国の崩壊

1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となった。1938年、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。

永世中立国の首都として  ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)

1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーン攻勢でソビエト連邦軍に占領され、その後連合国の合意で米英仏ソ四か国の共同占領下に置かれた。1949年の映画『第三の男』は、この時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。

1955年、オーストリア国家条約の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党が国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。

ブルーノ・クライスキー首相は、ウィーン国際センターの建設を提案し、ウィーンをニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは国際連合ウィーン事務局として数々の国際機関の所在地となった。しかし鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通し、人口が減少したのはウィーンだけである。

現代のウィーン

1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8か国が欧州連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリア、2013年にはクロアチアが加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。

ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。

ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。ICCAによる2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。

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