宇治茶

宇治茶(うじちゃ)は、日本の緑茶。京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県産茶を、京都府内業者が京都府内において、京都府南部の宇治地域に由来する製法により仕上加工したもの(ただし京都府内産を優先する)。

静岡茶、狭山茶と並んで日本三大茶と言われている。

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室町時代まで

鎌倉時代初期、日本に喫茶の習慣を広めた明菴栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶壷」に入れて明恵に送った。明恵はその茶種を京都の北、栂尾の高山寺に近い深瀬(ふかいぜ)の地に植え[1]、その後、宇治の地にも播植した。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に平等院に小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、この地で本格的な茶の栽培が始まった。南北朝時代には栂尾で生産された茶が「本茶」とされ、それに続くとされていた醍醐や宇治の茶は「非茶」と呼ばれた[2]。南北朝時代から室町時代にかけて、茶の産地の違いを飲み当てて点数を競う「闘茶」という遊びが流行した。初めは本茶と非茶を比べ当てる遊びだった。やがて数種類から十数種類の茶を比べ当てる遊びに発展し、他産地とは異なる香り・味を持った茶を生産しようという動きが生まれ、様々な産地が登場した。1374年(応安8年)、豊原信秋が覚王院僧正に「宇治茶」を献上したことが『信秋記』に記されるが、これが「宇治茶」という語の初出である。

南北朝前期から中期にかけては栂尾茶に次ぐ存在にすぎなかった宇治茶であるが、足利義満の庇護の下に発展の時代を迎え、南北朝末期から15世紀半ばにかけての発展ぶりは目覚ましく、一条兼良が記した『尺素往来』には「宇治は当代近来の御賞翫」と表現されている。義満に命じられた大内義弘が茶を植えたとされる七つの優れた茶園は宇治七茗園と呼ばれ、1564年(永禄7年)に刊行された『分類草人木』にその存在が記された。

宇治茶発祥の地  萬福寺門前の駒蹄影園址碑

宇治郷の宇治七茗園は久世郡側に偏在しており(宇治郡側は朝日園のみ)、中世以降宇治郷はもっぱら久世郡側を指すようになった。一方、宇治郡側では近衛家領だった五ケ庄に駒蹄影園の伝承がある。

鎌倉時代初めの1207年、宇治の里人たちが茶の種を植える方法に苦慮していた際、たまたま通りかかった、当時では茶文化の主流とされていた栂ノ尾高山寺の明恵上人が畑に馬を乗り入れ、できた蹄の跡に茶の種を蒔くように教えたとされる。「栂山の尾上の茶の木分け植えて、迹ぞ生ふべし駒の足影」は明恵上人の短歌。大正15年(1926年)には、この明恵伝説を記念して、駒蹄影園址碑(こまのあしかげえんあとひ)が、萬福寺門前に宇治郡茶業組合により建立された[3][4]。

戦国時代

天正2年3月27日(ユリウス暦1574年4月18日。グレゴリオ暦4月28日相当)、織田信長が南都(奈良)への下向途中に宇治に立ち寄り、茶摘みと製茶の風景を見物した。信長は茶師の森彦右衛門を御茶頭取として宇治郷の支配を命じ、森氏は信長死去まで宇治の茶業界で重要な役割を担うことになった。千利休は津田宗及、今井崇久に次ぐ立場の茶頭であったが、信長死後に豊臣秀吉に抜擢されて「天下一の茶湯者」としての地位を固め、ただの茶頭を超える存在となった。利休は宇治茶業界の統制に強力な姿勢で臨み、後述の上林氏と協力して宇治茶の地位向上に励んだ。

1582年(天正10年)、本能寺の変後に政治を継承した豊臣秀吉は森氏を尊重しながらも新進の茶師上林氏の上林久茂を積極登用し、宇治茶に対してこよなく愛情を注いだ。天正12年(1584年)1月、秀吉は宇治郷以外の者が宇治茶と称して茶を販売することを禁じた。同年3月29日(ユリウス暦4月21日。グレゴリオ暦5月1日相当)、吉田兼見は茶の購入と茶見物を兼ねて宇治を訪れ、「宇治一番の繁盛所である上林氏の製茶場には48もの焙煎炉が並び、500人ほどの茶撰人がいた」と記すと同時に「森氏の製茶場は上林氏の三分の一ほどであった」とも記し、上林氏が急速に頭角を現して森氏が衰退しつつあることを表した。上林氏は秀吉政権下で着実に地位を固め、宇治郷代官ならびに茶頭取として宇治茶生産の現場に君臨した。一方、利休亡き後の「茶湯名人」の称号は古田織部に受け継がれ、宇治茶とのかかわりにおいても利休のやり方を継承した。この安土桃山時代に宇治茶は天下一の茶としての地位を固め、最盛期といえる繁栄を続けた。織部の弟子、小堀遠州も宇治茶業界に大きな影響力を持ち、宇治茶師に好んで使われた朝日焼を始める。天正19年3月15日(1591年5月8日)には秀吉が茶摘み見物に宇治を訪れている。

江戸時代

戦国時代後期から江戸時代初期にかけては多くのキリスト教宣教師が来日し、彼らは布教に励むと同時に日本の生活・風俗を本国に伝えた。ルイス・フロイスの『日欧文化比較』やジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』などが日本の茶について触れている。中でも『日本教会史』は1600年(慶長5年)前後の宇治茶の特徴について詳細に記している。この時代も上林氏一族が茶業界の中枢に君臨しており、覆下栽培や茶の移植といった技術が既に行われていたこと、宇治茶の出荷量は「全部で300ピコ(約68トン)」であり、上質の茶の壷一つは金1枚以上の価値を持っていたことなどが記されている。

秀吉の後に天下人になった徳川家康は茶の湯に対する興味は薄かったが、茶自体には当初より高い関心を示していた。久重の弟上林政重を三河国で登用して、後に兄のいる宇治に移住させて共に宇治茶の栽培に当たらせた。

宇治茶の茶銘のうち「初昔」「後昔」などは慶長年間(1596年-1615年)より用いられていたとされる。茶頭の小堀遠州の働きなどもあって、1638年(寛永15年)以後は宇治茶のほとんどが茶銘を付して呼ばれるようになった。江戸中期以降、宇治の茶園には他に例のないくらい高い年貢が課され、大衆が日常的に茶を飲むようになったことで他地域にも茶産地が広がり、宇治茶は斜陽の時代を迎えた。しかし1738年(元文3年)、宇治田原の永谷宗円が宇治茶製法を確立。宗円や茶商山本屋、売茶翁によって江戸で大々的に販売され、宇治は煎茶の産地として復活した。宇治茶製法は南山城から現在の主要産地である大和国(奈良県)、近江国(滋賀県)、伊勢国(三重県)などへ伝わり、幕末までには全国の茶農家に普及したとみられる。1834年(天保5年)、宇治で玉露製法が創製されて以後、覆下茶園が急速に拡大した。

明治時代以降  平等院正門前にある宇治製茶紀念碑。

19世紀後半、開国と同時に煎茶は主としてアメリカ合衆国向けの重要な輸出品となり、品薄で価格の高騰を招いたことから煎茶栽培は全国に広がった。京都府内でも宇治田原や和束など現在の主要産地での茶栽培が盛んになった。しかし、生産量の急激な増加によって粗製乱造茶が出回るようになったため、茶業者と政府は茶業組合を組織して取締りに努めた。1879年(明治12年)、横浜で第1回製茶共進会が開催され、内務卿伊藤博文、大蔵卿大隈重信の連名で宇治製法に特別賞が与えられた[5]。1884年(明治17年)、粗悪品追放や茶業の改良のために京都府茶業組合取締所と各郡単位の茶業組合が結成された。1917年(大正6年)、第2回全国製茶品評会が宇治町で開催された。1919年(大正8年)、伊勢田の西村庄太郎らが碾茶乾燥機を考案した。1925年(大正14年)、宇治に茶業研究所が完成し、茶の栽培や製茶の研究が行われた。1926年(大正15年)には京都府立木津農学校に茶業科が設けられ、全国唯一の茶業専攻科として後継者育成に努めた。昭和時代に入ると茶の輸出量は減少し、碾茶製造の機械化が進んだ。

太平洋戦争中には協定価格や公定価格が定められ、茶業組合は解散させられた。玉露や碾茶は贅沢品であるとして、茶畑は芋などの食糧畑へ転換させられ、生産量は大きく落ち込んだ。

京都府の荒茶生産高は戦後しばらく700 - 1000トン前後であったが、1955年(昭和30年)頃から急速に回復し、1960年代後半からは現在におけるまで3000トン前後で推移している。1961年(昭和36年)には宇治茶の登録マークが証票登録された。1981年(昭和56年)、京都府茶業センターが宇治市に建設された。

^ 日本最古の茶園 栂尾山 高山寺、2018年2月12日閲覧 ^ 異制庭訓往来 ^ 岡本望『やさしい宇治の歴史』文理閣 2006年 pp.154~155  ^ 『宇治市史2』宇治市役所 1979年 p.212  ^ この時の賞金をもとにして、平等院正門前に宇治製茶紀念碑が建立されている。宇治探訪 -お薦め観光スポット-
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