龍安寺

龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。

この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。

長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。

『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。

寛政9年(1797年)に京都町奉行へ提出された図面には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(せいげんいん、現在は妙心寺の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。

その後、明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されている。

1929年(昭和4年)に火災により一部を焼失した。

1951年(昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た[1]。

1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。

1994年(平成6年)ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。

上記にある狩野派による方丈の襖絵90面であるが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。

そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。

なお、鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院があるが、それらは現在は龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭となっている。

^ 京都のお寺台なし『日本経済新聞』昭和26年7月18日3面
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