Amsterdam

( アムステルダム )

アムステルダム(オランダ語: Amsterdam, 発音: [ˌʔɑmstərˈdɑm] ( 音声ファイル))は、オランダの首都。北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、オランダ最大の都市である。人口921,402人(2022年)、都市圏人口は2,480,394人にのぼる。商業や観光が盛んなヨーロッパ屈指の世界都市である。地名は「アムステル川のダム(堤防)」の意(「ダム広場」の項を参照)。

憲法に規定されたオランダの首都だが、国会、中央官庁、王宮、各国の大使館など首都機能のほとんどはデン・ハーグにある。

元々は小さな漁村だったが、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河や、その運河に沿って並ぶ無総督時代の豪商の邸宅、自転車、飾り窓の女性たち、アンネ・フランクの家などで広く知られる。

アムステルダムは昔、海だった所を干拓によって陸地化した土地に建設されたため、内陸部の都市より歴史が浅い。干拓が始まったのは11世紀頃と推定されているが、当初は農業や泥炭採掘が目的で居住者は少なかった。13世紀後半になると交易の拠点となり、地名が文献に現れ始め、街は急速に発展した。

建設  1306年献堂の旧教会 (Oude Kerk)

アムステルダムは13世紀に漁村として築かれた。伝説によれば、犬を連れて小さな船に乗った二人の猟師が、アムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。アムステル川をせき止めた(アムステルのダム:Dam in de Amstel)というのが街の名前の由来。1287年12月14日、北海からの高波がゾイデル海に流れ込み、聖ルチア祭の洪水と呼ばれる大水害を引き起こした。これによってゾイデル海は大きく拡大するとともに、北海へと開口することになり、ゾイデル海の一番奥にあるアムステルダムが海陸の接点として注目されることとなった。1300年(または1301年)に自由都市となり、14世紀にはハンザ同盟との貿易により発展した。やがて15世紀にはハンザ同盟をしのいでバルト海交易の中心地となっていった。

独立  1538年当時のアムステルダム

16世紀には当時ネーデルラント17州を支配していたスペイン王フェリペ2世やその後継者に対する反乱が起こり、八十年戦争へ発展した。この間、アムステルダムは独立派に組していた。1585年8月に南ネーデルラントのアントウェルペンがスペインのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降伏すると、アントウェルペンの新教徒商人がアムステルダムへと続々と移住し、アムステルダムはそれまでのバルト海交易のみならず、それまでアントウェルペンが支配していた地中海交易や新大陸、アジアからの交易をも手に入れ、これによってアムステルダムは世界商業・金融の中心地となっていった。独立を獲得したオランダ共和国はその宗教的に寛容であった。スペインやポルトガルからはユダヤ人がレコンキスタから逃れてきたし、アントウェルペンからは豪商が進出してきた。ユダヤ人はこのアムステルダムとアントウェルペンでダイヤモンドの加工を営んだ。フランスからはユグノーが安住の地を求めてやって来た。フランドルからの豊かで洗練された移住者はオランダ語の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。1609年にヴェネツィア流のアムステルダム銀行ができた。

黄金時代

17世紀はアムステルダムの黄金の時代と考えられている。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港は浅かったものの広く、交易の結節点ならびに商業の中心地としての魅力はその欠点を補って余りあった[1]。1595年、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団はジャワ島から東方の物産を積んで帰国した。これによって東方貿易ブームが起きるが、あまりにも過当競争となったために、1602年に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社が設立された[2]。アムステルダムの港を発する商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社(VOC)やオランダ西インド会社(WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ植民地を形成する海外権益の基礎となった。具体的には中南米のプランテーションで生産された砂糖が送られてきた。

アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であったが、世界を牽引する金融中心地でもあった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所であった。チューリップ・バブルでは先物取引などが行われていた。ヘーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代である。

オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や言論の自由、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。アムステルダムにはこの当時400軒の出版業者が軒を連ね、ルネ・デカルトなどもアムステルダムに落ち着いている[3]。こうして、アムステルダムは文化の中心となっていった。

アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超えるくらいであったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(2005年1月1日現在の人口は74万2,951人)。

無総督時代 18世紀以降  1814年当時のダム広場及び王宮

18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ連合王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。

19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館、アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。

第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。

第二次世界大戦では、1940年5月10日にナチス・ドイツがオランダに電撃侵攻を開始。侵攻開始3日後の5月13日、政府は首都機能をロンドンへ移転[4]、さらに翌5月14日には降伏してドイツに占領された[5]。

ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ国家社会主義運動(オランダ・ナチス)による文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。

第二次世界大戦後、アムステルダムは復興し、再び欧州の主要都市となった。

^ 「ニシンが築いた国オランダ 海の技術史を読む」p149-150 田口一夫 成山堂書店 平成14年1月18日初版発行 ^ 「オランダ史」p62-63 モーリス・ブロール著 西村六郎訳 白水社 1994年3月30日第1刷 ^ 「オランダを知るための60章」pp79-80 長坂寿久 明石書店 2007年4月30日初版第1刷 ^ オランダ政府、ロンドンへ移転(『東京朝日新聞』昭和15年5月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368 ^ ロッテルダム陥落、オランダ軍降伏(『東京朝日新聞』昭和15年5月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368
写真提供者:
Statistics: Position
2100
Statistics: Rank
59218

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
481593762このシーケンスをクリックまたはタップします: 6415

Google street view

どこの近くで寝れますか アムステルダム ?

Booking.com
490.727 総訪問数, 9.208 興味がある点, 405 保存先, 14 今日の訪問.