Alberobello

( アルベロベッロ )

アルベロベッロ(イタリア語: Alberobello)は、イタリア共和国プッリャ州バーリ県にある、人口約1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。

「トゥルッリ」と呼ばれる伝統的な家屋が約1500軒あることで知られている。白壁に円錐形の石積み屋根を載せたこの家屋は、16世紀から17世紀にかけて開拓のために集められた農民によって造られたものである。かつてこの地方に広く見られたトゥルッロ群(複数形で「トゥルッリ」)が多数現存し、住居や店舗として利用されている景観は貴重であり、「アルベロベッロのトゥルッリ」は1996年に世界遺産として登録されている。

定住の始まり

14世紀半ば、ターラント公ロベルト (Robert, Prince of Taranto) がこの地方の領主権をコンヴェルサーノ伯に与えた際、現在のアルベロベッロのある周辺は「無人の土地」と記録されている[1]。以後、この地域はコンヴェルサーノ伯の荘園となりカゼッレ(caselle)と呼ばれ、領内の他の地域から農民が移されたと考えられる[1]。ただし、西暦1000年ころには現在のアイア・ピッコラとモンティに集落が形成されていたとする研究もある[1]。

この地域への人々の定住がはじめて記録されるのは16世紀初頭のことで、コンヴェルサーノ伯アンドレア・マッテオ3世・アックアヴィーヴァ・ダラゴーナ (it:Andrea Matteo III Acquaviva) が推進したことによる。アックアヴィーヴァ家 (it:Acquaviva (famiglia)) はナポリ王国有数の名門貴族の家系で、アンドレア・マッテオ3世の父であるジュリオ・アントニオ1世 (it:Giulio Antonio I Acquaviva d'Aragona) がコンヴェルサーノ伯爵領を入手した。アンドレア・マッテオ3世はノーチの属地であったこの地域に、およそ40家族の農家を開拓・営農のために入植させ、収穫物の十分の一を納めることを課した。

16世紀半ばの記録によれば、モンティ地区には40軒のトゥルッリがあった[1]。

ジャンジローラモ2世とトゥルッリ

アンドレア・マッテオ3世の子孫であるジャンジローラモ2世 (it:Giangirolamo II Acquaviva d'Aragona) (1600年 - 1665年、コンヴェルサーノ伯在位: 1626年 - 1665年)は、Guercio delle Puglie の名で知られ、勇猛な武人、有能な荘園経営者、芸術家のパトロン、そして暴君として多くの逸話が語られる人物である(最後の約20年は暴政を理由として国王に逮捕・幽閉され、スペインで客死した)。ジャンジローラモ2世はしばしばこの地で狩猟を催して滞在した。1620年、ジャンジローラモ2世は、この地に製粉所、パン屋、宿屋を建てさせ、町の拡大がはじまった[1]。

 とんがり屋根のトゥルッリ

もともと石灰岩質のこの地方では、先史時代から石灰岩を住居に用いる方法が発展してきた[1][2][3]。モルタルなどの接合剤を使わずに石灰岩の切石を積み上げ(乾式工法 (Dry stone) )、石灰(漆喰)に塗って仕上げたトゥルッロ(「部屋一つ屋根一つ」の意)は、農民たちの厳しい生活環境に応じて入手しやすい材料で作られ[4]、気候風土に合った形で発展を遂げたものである[2]。一方で、農民の家は解体しやすいよう簡易に建設することが領主によって命じられていたともいう[1]。理由としては2つあり、1つは反抗的な農民への見せしめ、もう1つは課税対策である[1]。

当地のトゥルッリについては以下のような話が伝わる。伯爵は家屋の建築にあたってモルタルを使わない方法のみを認めたため、市街地にはトゥルッリが広がった。伯爵がこのような建築を義務化した理由としては、ナポリ王国のスペイン人総督(ナポリ王は1700年までスペイン・ハプスブルク家が王位を継承し、ナポリに総督が派遣されていた)に納める税を逃れる意味合いがあった。1700年まで効力があった Pragmatica de Baronibus によれば、新たな町の建設には王の認可が必要で、領主は王宮に税を納めなければならなかった。このため、取り壊しをしやすいような家屋を建てさせ、王の監督官が視察に来る際に領民に命じて取り壊させていた、というのである(実際、1644年のナポリ王国の徴税官の報告に、徴税を妨害するための家屋解体が行われたと記載されている[1])。

なお、トゥルッロの簡易な構造と節税とを関連させる話としては、「『漆喰で塗装された屋根のある家』が課税対象であったため、徴税人が来る際に住民が屋根を取り壊した」という話も伝えられている[2]。

近代

18世紀末まで、この地はアックアヴィーヴァ・ダラゴーナ家の荘園であった。18世紀末の時点の人口として3500人が数えられている[1]。住民たちの働きかけにより[1]、1797年5月27日にブルボン家のナポリ王フェルディナンド4世はこの村を王領都市(città regia)として、封建農奴制から解放した。現在のアルベロベッロという地名は、この土地の中世の名 silva arboris belli [1]にちなんでつけられた。

トゥルッリはこの地方では広く見られた建築で、たとえば20世紀前半までヴィッラ・カステッリの旧市街にはトゥルッリが立ち並んでいたが、やがてそうした景観は失われていった。アルベロベッロでも19世紀以降トゥルッリが新築されることは急速になくなっていく[1]。しかし、アルベロベッロには多くのトゥルッリが残り、世界遺産として登録される20世紀後半には、すでに観光地として知られていた[2]。

1996年、「アルベロベッロのトゥルッリ」が世界遺産として登録されている。

^ a b c d e f g h i j k l m 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「unesco」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c d 目黒正武. “アルベロベッロのトゥルッリ(2011年10月18日放送分)”. 世界遺産アカデミー. 2014年6月18日閲覧。 ^ “アルベロベッロのトゥルッリ”. イタリア政府観光局. 2014年6月18日閲覧。 ^ “アルベロベッロのトゥルッリ”. NHK世界遺産ライブラリー. 日本放送協会. 2014年6月18日閲覧。
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