البتراء

( ペトラ )

ペトラ(アラビア語: البتراء‎)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語でを意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録(ID326)。2007年7月、新・世界七不思議に選出。

紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。(旧約聖書の創世記第36章によると、アブラハムの孫・エサウ系の子孫と、その地のセイル(セラ)山地に先住していたホリビとセイルの子孫らとの一部混淆による人たちであろうと推定されうる。)

紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。

紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。

紀元後1世紀の初期には、ナバテア王であったアレタス[1]は隣接するペレアの領主ヘロデと仲が悪く何度も争い事があり、一度は小康状態になりアレタスの娘がヘロデの元に嫁いだものの、後日ヘロデが兄弟の妻(姪でもある)ヘロディアを夫と別れさせ新しい妻にしようとしたため、アレタスの娘は逃げだして実家に帰り、間もなくヘロデとアレタスの間に戦が起き、ヘロデ軍内の内部分裂もあってアレタスが勝利したものの、宗主国であるローマ帝国が割って入り、戦を仕掛けたアレタスに問題があるとしてとらえ次第処刑の命令を下した[2]。

紀元後105年に、ローマ皇帝トラヤヌスが反乱を起こしたペトラを降伏させ[3]、106年には、ペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。

363年、ガリラヤ地震 (363年)(英語版)が発生した。多くの建物が崩壊し、水路網が破壊されるなどの被害が生じた。

663年、イスラム帝国によってこの地域が征服され、ペトラが主要通商路から外れると、ペトラは次第に衰退していった。

749年、ガリラヤ地震 (749年)(英語版)が発生した。この地震によって大きな被害が生じると、ついにナバテア人はペトラを放棄した。

1812年、スイス人の探検家であるヨハン・ブルクハルトが、12世紀の十字軍以降で初めてヨーロッパへ紹介した[4]。

^ 明記はないがアレタス4世 ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第18巻5章全般。なお、その後アレタスがどうなったかについては同書に書かれていない。 ^ ヒッティ、112頁 ^ ヨルダン政府観光局、ペトラ
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