Велико Търново

( ヴェリコ・タルノヴォ )

ヴェリコ・タルノヴォ
Велико Търново

ヴェリコ・タルノヴォ(ブルガリア語:Велѝко Тъ̀рново / Veliko Tarnovo)はブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴェリコ・タルノヴォ州の州都である。町はヤントラ川沿いに広がり、第二次ブルガリア帝国の首都として多くの観光資源で知られている。

古代  ヴェリコ・タルノヴォの歴史地区

ヴェリコ・タルノヴォはブルガリアでも最古の集落の一つであり、5千年紀を超える歴史を有する。この地域に人間が居住していた最古の痕跡は紀元前3千年紀のものである。

中世

ヴェリコ・タルノヴォは12世紀から14世紀にかけてブルガリアで最も強固な要塞として成長し、ブルガリア帝国の首都としてその政治、経済、文化、宗教の最重要拠点となった。14世紀に東ローマ帝国が弱体化すると、タルノヴォは、そのバルカン半島およびスラヴ系正教会圏に対する重要性から、第3のローマを称した。

オスマン帝国統治時代  ヴェリコ・タルノヴォと取り巻く山々の朝。 コリュ・フィチェトによる生神女誕生大聖堂(1844年建立、1913年再興)

町は2百年にわたって繁栄と発展を続けた。町の政治的・精神的な発展は1393年、オスマン帝国による3箇月にわたる包囲の後の陥落によって停止し、ブルガリア帝国全土は侵入したオスマン帝国の征服者によって荒廃した。中世のブルガリアで、町や村、教会や修道院の多くが焼かれ、灰と化した。

ヴェリコ・タルノヴォは中世にはブルガリア語でトゥルノヴグラト (Търновград / Tarnovgrad) と呼ばれ、1598年(第一次タルノヴォ蜂起、en)と1686年(第二次タルノヴォ蜂起、en)の2回の対オスマン帝国武装蜂起の場となったが、いずれもブルガリア解放を実現することはできなかった。

トゥルノヴグラトはその後も19世紀までオスマン帝国支配下に置かれ続けた。19世紀にはブルガリア民族復興運動によって民族意識が喚起され、強力な抵抗運動へと繋がっていった。ブルガリアの独立国家と独立教会たるブルガリア正教会を復活させる考えは、1875年と1876年の蜂起へと結びついた。1876年4月23日の4月蜂起(en)はオスマン帝国によるブルガリア支配の終焉の始まりであった。これは後の露土戦争へと繋がっていった。

ブルガリア解放後

1877年7月7日、ロシアの将軍ヨシプ・ヴラジーミロヴィチ・グルコ (Иосиф Владимирович Ромейко-Гурко / Joseph Vladimirovich Gourko) によってタルノヴォは解放され、480年に及んだオスマン帝国による支配に終止符が打たれた。1878年にはベルリン条約によってブルガリアの北東部を領土とするブルガリア公国が認められ、タルノヴォはドナウ川からバルカン山脈にかけて広がるブルガリア公国の首都となった。

1879年4月17日、ブルガリア初の国会がヴェリコ・タルノヴォで召集され、タルノヴォ憲法(en)として知られるブルガリア初の憲法を議決した。その主要な内容はブルガリアの首都をソフィアへと移転することであり、以降今日までブルガリアの首都はソフィアとなっている。

フェルディナントは、1908年10月5日のヴェリコ・タルノヴォの完全独立宣言の場所としてヴェリコ・タルノヴォの「40人の致命者聖堂」を選んだ。

1965年、町はその豊かな歴史と重要性を記念し、公式にタルノヴォからヴェリコ・タルノヴォへと改称された。

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