Yosemite National Park

( ヨセミテ国立公園 )

ヨセミテ国立公園(ヨセミテこくりつこうえん、Yosemite National Park [joʊˈsɛmɨti] )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州中央部のマリポサ郡及びトゥオルミ郡にある、自然保護を目的とした国立公園である。そこに住んでいたネイティブアメリカンの部族の呼称から名づけられた。

1864年、州立公園に指定。1890年、国立公園に指定。1984年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。

ネイティブ・アメリカンの時代  パイユート族の儀式(1872年、現在のヨセミテ・ロッジ)。

この地域には、白人が入植するはるか昔、パイユート族とシエラ・ミウォク族の人々が住んでいた。白人が入った時、ヨセミテ渓谷に住んでいたのはアワニチ族と呼ばれるネイティブ・アメリカンであった[1]。

アワニチ族は、パイユート族などいくつかの部族から出奔した者が集まった部族で、テナヤ酋長が率いていた。彼らは、この土地を「大きな口」という意味の「アワニー (Ahwahnee)」と呼び、自らをアワニーに住む人々という意味でアワニチ (Ah-wah-ne-chee) と呼んでいた。一方、彼らは、これと対立関係にある穏やかなミウォク族からは、恐れを込めて、「殺し屋たち」という意味のYohhe'metiと呼ばれていた[2]。

白人としてヨセミテ渓谷を発見したのは、アメリカ陸軍ジム・サヴェジ少佐が率いるマリポサ歩兵大隊であり、1851年のことであった[3]。19世紀半ばのカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、カリフォルニアに流入する白人の数が激増する中、同大隊は、マリポサ戦争と呼ばれる戦いの中、約200人のアワニチ族を追って、ヨセミテ渓谷の西端まで来た[4]。

 マリポサのインディアンの宿営(アルバート・ビアスタット画)。

この地を「ヨセミテ」と名付けたのは、サヴェジ少佐の部隊に従軍していた医師ラファイエット・バンネルであるとされる。バンネルは、アワニチの人々がこの土地を指していた「アワニー」という名前ではなく、この人々に対するミウォク族からの呼び名であり、よりアメリカ的であると感じられた「ヨセミテ (Yo-sem-i-ty)」という名称を採用することにした。前述のとおり、これは「殺し屋たち」という意味のミウォク語 (Yohhe'meti) であるが、バンネルやサヴェジ少佐は、発音が似ている、グリズリーベアを指すミウォク語 (ïhümat.i or ïsümat.i) と勘違いをしていた[2]。

なお、テナヤ酋長とアワニチの残党は、結局捕らえられ、その村は焼かれてしまった。そしてカリフォルニア州フレズノのインディアン居留地に移転させられた。一部は後にヨセミテ渓谷に戻ることを許されたが、1852年春に鉱夫8人を襲う事件を起こした[5]。彼らは東方のモノ湖へ逃げ、近くのモノ族にかくまってもらった。しかし、モノ族から馬を盗んだことで探し出され、1853年モノのパイユート族に殺された。テナヤ酋長は殺され、生き残った者はモノ湖に連れ戻され、モノ湖のパイユート族に同化してしまった。アワニーのインディアン村は、現在、ヨセミテ渓谷ビジター・センター隣のヨセミテ博物館の裏手に再現されている。

初期の観光  ワウォナ・ホテル

1855年、起業家のジェームズ・メイソン・ハッチングズ、画家のトマス・エアーズほか2人が旅行者として初めてこの地を訪れた[4]。ハッチングズはこの時や後の旅行について記事や本を書き、また、エアーズのスケッチはヨセミテの景観を初めて正確に伝えるものとなった。写真家チャールズ・リンダー・ウィードは1859年に初めてヨセミテの写真を撮った[4]。後には写真家のアンセル・アダムスも登場した。

ワウォナ (Wawona) は、現在の公園の南西部にあったインディアンの宿営地であった。入植者ガレン・クラークは、1857年、ワウォナでセコイアデンドロン(ジャイアントセコイア)の森マリポサ・グローブを発見した。簡易な宿泊設備や、そこに至る道路が設けられた。1879年、マリポサ・グローブを訪れる旅行者のために、ワウォナ・ホテルが建てられた。旅行者が増えるに従って、トレイルやホテルの数も増えた。

ワウォナ・ツリー、別名トンネル・ツリーは、マリポサ・グローブにあった有名なジャイアントセコイアの木で、高さ69メートル、外周27メートルあった。1881年、樹木下部にトンネルが切り開かれ、旅行者には人気の写真撮影スポットとなった。19世紀には荷馬、20世紀には自動車が、この木の下の道路を通っていたが、1969年、降り積もった雪で倒壊した。樹齢は2300年と推定されている。

ヨセミテ・グラント  ガレン・クラーク

観光名所化が進むにつれて、ガレン・クラークや上院議員ジョン・コネスらは、乱開発を懸念してこの地域の保護を訴え始めた。法案が連邦議会の両院を通過し、大統領エイブラハム・リンカーンが1864年6月30日これに署名したことで、ヨセミテ・グラントが設立された[6]。これは、連邦政府が保護と公共利用のために公園を指定した最初の例であり、後にイエローストーンが最初の国立公園として設立された際にも先例となった[7]。ヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブは、カリフォルニア州に州立公園として譲渡され、2年後に理事会が組織された。

ガレン・クラークは、理事会からヨセミテ・グラントの初代管理者に任命されたが、クラークも理事らもホームステッド法に基づく入植者(その1人がハッチングズであった)を立ち退かせる権限は持っていなかった[6]。この問題は、1875年にホームステッド法による占有権が無効になるまで解決しなかった。1880年、クラークと現職理事らは更迭され、ハッチングズが新しい管理者となった[8]。

公園へのアクセスや、ヨセミテ渓谷内での滞在環境はかなり改善した。1869年に大陸横断鉄道が完成してから、観光客の数は大きく増えたが、公園まで長い時間馬に乗らなければいけないのが障害であった[6]。1870年代中頃、3本の馬車道が整備されたことにより、ヨセミテ渓谷への行き来の便は大幅に改善した。

スコットランド生まれの博物学者ジョン・ミューアが書いたこの土地についての論文は、社会の科学的関心を引いた。彼は、当時の通説に反対して、ヨセミテ渓谷の地形が氷河によって形成されたことを理論化した最初の人物の1人である[8]。

国立公園の創設  グレイシャー・ポイントに立つセオドア・ルーズベルト(左)とジョン・ミューア。

ヨセミテでは、草地への過度の放牧(特に羊)や、ジャイアントセコイアの伐採が見られるようになり、ミューアは保護を更に推し進める必要があると考えた。彼は、センチュリー・マガジン誌の編集者ロバート・U・ジョンソンなど、ヨセミテを訪れた有力者に、この地を連邦政府の保護下に置くべきだと説いた。ミューアとジョンソンは連邦議会へのロビー活動を行い、それが実って1890年10月1日にヨセミテ国立公園が設立された[9]。ただし、ヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブについてはカリフォルニア州の管理下に残った。また、ミューアは、ヨセミテの高地での放牧を事実上禁止するよう、地方政府の説得にも尽力した。

ヨセミテ国立公園は、1891年5月19日、アメリカ陸軍第4騎兵連隊の管轄下に入り、同連隊がワウォナにキャンプを設けた[9]。しかし、軍には、カリフォルニア州が管轄するヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブの環境悪化について介入する権限がなかった。

ミューアと、彼が創設したシエラクラブは、州が管理しているヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブを連邦政府のヨセミテ国立公園に統合するよう、政府や有力者へのロビー活動を続けた。1903年5月、大統領セオドア・ルーズベルトがグレイシャー・ポイント近くでミューアとともに3日間のキャンプを行った。この時、ミューアは大統領にヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブをカリフォルニア州から連邦政府へ移管させるよう説いた。そして、1906年、両地域を連邦政府に移管・統合する法律が成立し、大統領はこれに署名した[10]。

国立公園局による管理と保護

アメリカ合衆国国立公園局は1916年に設立され、ヨセミテも同局に移管された。トゥオルミ・メドウズ・ロッジ、タイオガ・パス・ロード、またテナヤ湖、マーセド湖のキャンプ地も同じ年に完成した[11]。全天候対応のハイウェイが建設されてからは、公園内に入る自動車の数が急増した。1926年には、アンセル・フランクリン・ホールの尽力により、ヨセミテ博物館が開館した[12]。

1903年、公園北部のヘッチ・ヘッチー渓谷に、サンフランシスコ市内へ水と電力を供給するためのダム建設計画が持ち上がった。ミューアやシエラクラブをはじめとする保護論者(プリザベーショニスト)はこれに反対したが、ギフォード・ピンチョットら、環境保護と天然資源の利用の調和を主張するコンサベーショニストと呼ばれる人々は計画を支持した。1913年、連邦議会はオショーネシー・ダムの建設を認めるレイカー法を可決した[13]。

その後、保護論者の主張を受けて、連邦議会は公園の89%に当たる27万4200ヘクタールを「ヨセミテ自然保護区域」に指定した[14]。国立公園局は、夜間、グレイシャー・ポイント近くの岩壁から赤い火の塊を落とす「ファイアフォール(火の滝)」というイベントが行われていて呼び物になっていたのをやめさせるなど、本来の自然に反する集客イベントの廃止を進めた。また、夏期の交通混雑も大きな問題となった。現在、自動車で公園を通り抜けることは可能であるが、園内では無料のシャトルバスが数路線走っており、これを利用することが推奨されている[15][16]。

1984年、ヨセミテ国立公園はユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された[17]。

^ Bunnell, Lafayette H. (1892年). “Discovery of the Yosemite and the Indian War of 1851 Which Led to That Event”. F.H. Revell. 2007年1月27日閲覧。 ISBN 0-93966-658-8. ^ a b Anderson, Daniel E. (2005年7月). “Origin of the Word Yosemite”. The Yosemite Web. 2007年1月27日閲覧。 ^ “Discovery of the Yosemite (1892) by Lafayette H. Bunnell: Summary”. Yosemite Online. 2010年2月15日閲覧。 ^ a b c Harris 1998, p. 326. ^ Schaffer 1999, p. 46. ^ a b c Schaffer 1999, p. 48. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「historyculture-1」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b Schaffer 1999, p. 49. ^ a b Schaffer 1999, p. 50. ^ “John Muir's Influences”. National Park Service (2009年6月4日). 2010年2月22日閲覧。 ^ Schaffer 1999, p. 52. ^ “Yosemite Museum”. National Park Service (2008年12月17日). 2010年2月24日閲覧。 ^ Schaffer 1999, p. 51. ^ 98th U.S. Congress (1994年). “PUBLIC LAW. 98-425” (PDF). 2010年2月26日閲覧。 ^ “Getting Around”. National Park Service (2007年7月11日). 2010年2月26日閲覧。 ^ “Bus”. National Park Service (2009年5月27日). 2010年2月26日閲覧。 ^ “World Heritage: Yosemite National Park”. UNESCO World Heritage Centre. 2010年3月10日閲覧。
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