ヨセミテ渓谷

ヨセミテ渓谷(ヨセミテけいこく、英: Yosemite Valley yoh-SEM-i-tee)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州、シエラネバダ山脈西側斜面のヨセミテ国立公園にある氷河の作用でできた渓谷である。長さは約8マイル (13 km)、深さは最大1マイル (1,600 m)、ハーフドームやエル・キャピタンといった高い花崗岩の頂に囲まれ、松が鬱蒼と茂っている。渓谷の水はマーセド川や、テナヤ、イリルーエット、ヨセミテ、ブライダルベイルの各クリークなど多くの水流に流れている。これらのクリークはブライダルベール滝などカリフォルニア州で最大クラスの高さの滝を形成している。ヨセミテ渓谷はその自然美で知られ、ヨセミテ国立公園の中心的存在として世界中からの観光客を惹きつけている。

観光シーズンには様々な活動の中心となり、その中心には各種観光施設が集まっている。渓谷の中でを周回するトレイルやより標高の高い地点に至るトレイルヘッドがあり、それらは全て国立公園内の多くの景観を垣間見させてくれる。

 ハーフドーム、マルグリット・ゾラック画、ブルックリン美術館蔵

ヨセミテ渓谷の近代史は人類の訪問者、最初のインディアン、続いてヨーロッパ人開拓者、さらに世界中からの観光客の歴史である。

インディアン

インディアンはヨセミテ地域に8,000年間は住んでいた[1]。記録のある最初の人類はこの渓谷を「アーワーニー」、自らを「アーワーニーチー」と呼んだインディアンのバンドだった[2]。このバンドは、シエラネバダ山脈の東側に住むモノ湖のパイユート族と交易し、家族の結びつきがあった。彼らは毎年渓谷の底部で植生を燃やし、それでブラックオークを育て、草原や森を開かれた状態に保った。このことでその主要食材であるドングリを守り、危険性を減らした。ヨーロッパ人が最初に接触したとき、このバンドはテナヤ酋長が率いており、この酋長はモノ湖パイユート族の中で母に育てられていた。

マリポサ大隊と最初の観光客

インディアン以外でヨセミテ渓谷を最初に見た者は、おそらく1833年のジョセフ・ウォーカー隊のメンバーであり、この隊が初めてシエラネバダ山脈を東から西に超えた[3]。しかし、ヨセミテについて最初に文献に残したのはそれから20年近く後だった。1849年のカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、鉱山師とインディアンの間に紛争が起こり[4]、カリフォルニア州はヨセミテ地域のインディアンに対して懲罰目的で志願兵によるマリポサ大隊を結成した。1851年、この大隊はジェイムズ・D・サベージ少佐が率いた。サベージはマーセド川沿いにあったその交易基地をアワーニーチーに襲撃されていた[5]。この時と他の任務により、テナヤ酋長とアワーニーチーはサンホアキン・バレーの保留地で数か月を過ごすことになった。このバンドが翌年渓谷に戻ったが、鉱山師達と紛争が持ち上がった後でモノ湖パイユート族の中に隠れた。アワーニーチーの大半(テナヤ酋長も)は、馬を盗むことで恩をあだで返した後、パイユート族に渓谷に追い返され、殺された。

マリポサ大隊最初の遠征隊のメンバーがマーセド川上流で見られたことの噂を聞いてはいたが、1851年3月27日に、現在オールド・インスピレーション・ポイントと呼ばれる場所から見たものについて何の準備もしていなかった。ラファイエット・バネル博士は次のように記していた。

「 その景色の雄大さは谷に罹っていた靄によって和らげられてこそあった。 -- 蜘蛛の糸のように軽く -- 雲によって高い崖や山が一部隠れてはいた。見えるものが曖昧だとしても、私が見たときの畏敬の念を増し、見れば見るほど特別に高められた感情が私の全身を満たすように感じ、私の眼には感動の涙が出てきていた。[6] 」

この集団はその夜渓谷底部で宿営し、バネル博士がこの地を「ヨセミティ」と呼ぶという提案に同意した。しかしこれはインディアンの名前だと誤って信じていたものだった[7]。バネルは渓谷の壁の高さを過少に評価した人々の中でも最初の者だった。サンフランシスコの新聞が、崖の縁の高さが1,500フィート (450 m) と主張したバネルの証言をさらに下げるように要求し、既に半分以下になっていた数字をさらに下げて掲載した。

 ヨセミテ渓谷の最初の絵、トマス・エアーズ画、1855年

ジェイムズ・ハッチングスが1855年にヨセミテ渓谷への初の観光隊を編成し、画家のトマス・エアーズがヨセミテに関する初期の広告の大半を制作した。ハッチングスはヨセミテ渓谷に関する記事を制作し雑誌1冊を発行した[8]。エアーズの非常に詳細で、ある意味で芸術的に誇張した作品と紀行文が全国に配布され、ニューヨーク市ではその絵の展覧会が開催された。

ハッチングスが組織した最初の観光隊の中で、ミルトン・マンとヒューストン・マンが渓谷への最初の有料道路を建設し、地域最初のホテルが建設されるとその他のトレイルの建設が続いた。渓谷の草原では果樹園が造られ、家畜が草を食んだので、その結果は原始生態系にとっては障害となった。

ヨセミテ、最初の公園

エアーズの作品が東部人のヨセミテ渓谷に関する認識を与え、保存のための動きが始まった[9]。ガレン・クラーク、牧師のトマス・スター・キング、およびランドスケープ・アーキテクトのフレデリック・ロー・オルムステッドなど影響力ある人物が、カリフォルニア州のジョン・コネス上院議員を動かし、ヨセミテを保護させるようにした[10]。

 ビッグツリーグローブに立つガレン・クラーク

エイブラハム・リンカーン大統領は1864年6月30日に、ヨセミテ渓谷とジャイアント・セコイアのあるマリポサ・グローブを、カリフォルニア州が「公的に使い、リゾートとリクリエーションの場とし」、この2つの土地を「永久に譲渡されない」ことを認める法案に署名した[11]。これは連邦政府が景観の良い場所を保護のためだけに取って置き、人民全てが楽しむことを認めたことで、歴史上初めてのことになった。

地域を公園として指定するだけでは、そこを保護するために十分ではなかった。カリフォルニア州がこの公園の管理に取り掛かったのは1866年になってからであり、ガレン・クラークを公園の管理人に指名した。その後の11年間は渓谷の中の土地を自家の土地とする主張との争いに費やされた。観光客の増加に対応し、最初の駅馬車道、さらにはヨセミテ渓谷鉄道を建設する需要があり、渓谷内外のほてるなど施設が造られたのが19世紀の残り期間だった。しかし同時に渓谷自体に対する環境破壊が起こった。ヨセミテ公園が州の管理下にあったときの問題が、1872年に初の完全な国立公園としてイエローストーン国立公園を設立する時の要因の1つだった。

渓谷に行くときの難しさ故に、初期の観光客は数週間から数か月を要し、家族全員が多くの所持品を持ってきていた。それ故に初期のホテルは、長期間家を離れて滞在できる裕福な顧客が滞在し接遇されるように造られていた。1880年代に建設されたこのようなホテルの1つ、ワウォナ・ホテルが現在も営業している。

ヨセミテ渓谷が公園になった後、周辺の領域はまだ製材、鉱業、放牧の対象になっていた。ジョン・ミューアは渓谷を取り囲む準高山草原に与えた損傷を公表し、1890年に政府はヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブを囲むかなり広い範囲を国立公園として創設した。イエローストーン国立公園と同様に、新しい連邦政府の公園は1914年までアメリカ陸軍の管轄下にあった。1906年、カリフォルニア州はヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブを連邦政府に移譲した。国立公園局が1916年に設立され、ヨセミテの管理を引き継いだ[12]。

^ “Yosemite National Park website info page”. Yosemite.national-park.com. 2009年6月6日閲覧。 ^ abovecalifornia.com. Retrieved 4 January 2007. ^ Wuerthner 1994, p. 14. ^ Wuerthner 1994, p. 17. ^ Harris, Tuttle & Tuttle 1997, p. 326. ^ Bunnell 1892, p. 63. ^ Bunnell 1892, p. 62. ^ Wuerthner 1994, p. 20. ^ “Early drawing of Yosemite Falls”. National Park Service Museum Centennial. 2010年8月19日閲覧。 ^ Wuerthner 1994, p. 23. ^ Schaffer 1999, p. 48. ^ Schaffer 1999, p. 52.
写真提供者:
Statistics: Position
5076
Statistics: Rank
19399

コメントを追加

CAPTCHA
セキュリティー
642853917このシーケンスをクリックまたはタップします: 8178
この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

Google street view

どこの近くで寝れますか ヨセミテ渓谷 ?

Booking.com
538.391 総訪問数, 9.233 興味がある点, 405 保存先, 157 今日の訪問.