のコンテキスト フィレンツェ

フィレンツェ(イタリア語: Firenze [fiˈrɛntse] ( 音声ファイル))は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約38万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。英名由来のフローレンス、仏名由来のフローランスで呼ばれることもある。

詳細について フィレンツェ

Population, Area & Driving side
  • 人口 253565
  • 領域 102
履歴
  • 古代

    フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。

    中世

    中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配した(トスカーナ辺境伯(英語版)、846年 - 1197年)。 次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、1115年には自治都市、13世紀に共和制となった(フィレンツェ共和国、1115年 - 1532年)。 フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

    1300年頃、市国の外交政策を巡って教皇派と皇帝派に分かれた都市貴族の間で内乱が発生し、教皇派が勝利した。ところが今度は、教皇派の内部で自主独立派(白党)と教皇領従属派(黒党)の陣営に分かれて内乱が起きた(教皇派と皇帝派)。 内乱に終止符が打たれ、敗れた白党に所属し、医師組合から統領に推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[1]。 この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

    その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり(メディチ銀行(イタリア語版、英語版)、1397年 - 1494年)、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。 14世紀〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。 1410年にジョヴァンニ・ディ・ビッチはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、ピサ教会会議の対立教皇アレクサンデル5世が急死すると(暗殺説もある)、ヨハネス23世を対立教皇に据え、メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げた。

    1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。 1439年、フィレンツェ公会議。1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承した。

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    古代

    フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。

    中世

    中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配した(トスカーナ辺境伯(英語版)、846年 - 1197年)。 次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、1115年には自治都市、13世紀に共和制となった(フィレンツェ共和国、1115年 - 1532年)。 フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

    1300年頃、市国の外交政策を巡って教皇派と皇帝派に分かれた都市貴族の間で内乱が発生し、教皇派が勝利した。ところが今度は、教皇派の内部で自主独立派(白党)と教皇領従属派(黒党)の陣営に分かれて内乱が起きた(教皇派と皇帝派)。 内乱に終止符が打たれ、敗れた白党に所属し、医師組合から統領に推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[1]。 この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

    その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり(メディチ銀行(イタリア語版、英語版)、1397年 - 1494年)、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。 14世紀〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。 1410年にジョヴァンニ・ディ・ビッチはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、ピサ教会会議の対立教皇アレクサンデル5世が急死すると(暗殺説もある)、ヨハネス23世を対立教皇に据え、メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げた。

    1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。 1439年、フィレンツェ公会議。1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承した。

    孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。教皇シクストゥス4世(在位:1471年 - 1484年)がメディチの特権を取り消し、1478年にロレンツォと弟ジュリアーノが襲撃されたパッツィ家の陰謀でメディチ家の打倒が図られたが、暗殺者らと陰謀に加担していたパッツィ家は捕らえられて処刑された。同年、シクストゥス4世はスペイン異端審問を許可し、ユダヤ人商人への借金が多かったフェルナンド2世は異端審問によって社会的に抹殺することで債務を帳消しにしていった。翌年に計画の首謀者とされたピサ大司教が殺害されると、教皇庁とフィレンツェとの間で2年間の戦争が勃発した。(首謀者はウルビーノ公国のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとする研究もある。)1482年にシクストゥス4世は、ヴェネツィア軍によるフェラーラ公国への攻撃を計画したが(フェラーラ戦争(イタリア語版、英語版))、ミラノ公国のスフォルツァ家、フィレンツェのメディチ家、アラゴン朝ナポリ王国が阻止に動くと、翌年にはヴェネツィアへ禁令を発した。1484年8月7日に「バニョーロの和議」(イタリア語: Pace di Bagnolo)が締結され、8月12日にシクストゥス4世の薨去が発表されるまで、この混乱は続いた。

    1493年にボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世(在位:1492年 - 1503年)は反ナポリ王国同盟を結成し、1494年秋にはフランスのシャルル8世にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略させた。ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、ナポリ王フェルディナンド1世がフィレンツェ共和国・ミラノ公国・ヴェネツィア共和国と同盟していたため、フランスに対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[2]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1499年にマキャヴェッリはピサ戦役を計画し、翌年にフランス軍とスイス傭兵を用いて実施したが失敗に終わった。

    1503年に教皇ピウス3世が在位26日で急死し(暗殺説あり)、チェーザレ・ボルジアの支持を取り付けた新教皇ユリウス2世(在位:1503年 - 1513年)が就任。チェーザレはすぐに失脚し、カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)が勃発。1512年スペイン軍によってメディチ家が権力の座に復帰すると、1513年2月にボスコリ事件でマキャヴェッリが失脚し、3月メディチ家から新教皇レオ10世が誕生する。マキャヴェッリは隠遁生活中(1513年 - 1514年)に『君主論』『政略論』を完成した。1517年にレオ10世がサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状販売を認めると、ルターは95ヶ条の論題でこれに抗議したことをきっかけに、1525年のドイツ農民戦争が勃発して宗教改革が本格化した。1521年にミラノ公国のスフォルツァ家を追放した。

    1527年に教皇クレメンス7世(在位:1523年 - 1534年)がフランス王・フランソワ1世と同盟を結んだことをきっかけに、カール5世による報復のローマ略奪を招いた責任を問われてふたたび追放された。1530年にはクレメンス7世と皇帝カール5世が和解したため、メディチ家はフィレンツェに帰還、復権する。1532年にはフィレンツェ公国(1532年 - 1569年)となった。1533年にクレメンス7世は、フランス王フランソワ1世と縁組みをまとめ、カトリーヌ・ド・メディシスと後のアンリ2世が結婚。

    カトリーヌは10人の子を産んだもののフランスの政情は不安定で、ユグノー戦争(1562年 - 1598年)が勃発してしまう。教皇ピウス5世(在位:1566年 - 1572年)のフランスへの影響力を示したサン・バルテルミの虐殺(1572年)が知られている。

    1569年に、メディチ家の傍系からフィレンツェ公となっていたコジモ1世に、教皇ピウス5世の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国(1569年 - 1860年)の首都となった。コジモ1世は政庁(現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げた。

    フランスではヴァロワ朝が断絶し、1589年にアンリ4世 (フランス王)がブルボン朝を開いた。第2代トスカーナ大公フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年)は、娘マリー・ド・メディシスをフランス国王アンリ4世 (フランス王)の2番目の王妃に据えることに成功し、息子ルイ13世 (フランス王)を生んだ。

    近世

    フィレンツェは第3代トスカーナ大公フェルディナンド1世(在位:1587年 - 1609年)の治世までは繁栄していたものの、フェルディナンドの死後徐々に衰退していった。

    1737年、第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが没するとメディチ家の継承者は途絶え、メディチ家のトスカーナ支配は終わった。その頃、ロレーヌ(ロートリンゲン)公だったフランツ(後の、神聖ローマ皇帝フランツ1世)はオーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアとの結婚を周辺諸国に認められる代わりに、ロレーヌ公国をフランスへ明け渡すことになっていた。

    このフランツが、ちょうどメディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公を継承することになり(トスカーナ大公としてはフランチェスコ2世)、以後フランツとマリア・テレジアの子孫であるハプスブルク・ロートリンゲン家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあった。

    近代

    1860年にイタリア王国(1861年 - 1946年)に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

    第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は、イタリア軍と戦う連合国軍と、イタリア軍の降伏後にイタリア北部を占領下に置いて連合国軍と戦ったドイツ軍による被害をまぬがれたが、イタリアを北上する連合国軍とドイツ軍との戦いの中で、ヴェッキオ橋をのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。

    現代

    第二次世界大戦後は世界各国からの観光客を受け入れるイタリアでも有数の観光都市として繁栄している他、外国の大学の分校なども設けられている。

    1966年のアルノ川の大洪水(en)でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。


    ^ 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.32) ^ 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.36)
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