のコンテキスト ロンバルディア州

ロンバルディア州
Regione Lombardia

ロンバルディア州(ロンバルディーアしゅう、イタリア語: Lombardia  発音)は、イタリア共和国北西部に位置する州。州都はイタリア第二の都市であるミラノ。

イタリア最大の人口(約1000万人)を擁する州で、これはイタリアの人口の1/6を超える。また、イタリアの国内総生産(GDP)の23%を生産する。

詳細について ロンバルディア州

Population, Area & Driving side
  • 人口 10067494
  • 領域 23863
履歴
  • 古代

    古代ローマ時代、ロンバルディアはピエモンテやエミリア=ロマーニャと共にガリア・キサルピナ(ローマから見て「アルプスよりこちら側のガリア」の意)と呼ばれていた。メディオラヌム(現在のミラノ)、ティキヌム(パヴィーア)などの都市は、ローマ人以前にさかのぼる起源を有する。紀元前3世紀頃よりローマ人はこの地を征服。ガリア・キサルピナ属州が置かれていたが、紀元前42年頃、オクタヴィアヌス(のちのアウグストゥス帝)によってイタリア本土に編入された。紀元前27年、アウグストゥスによって第11行政区「トランスパダナ」 (it:Regio XI Transpadana) (首府:メディオラヌム)が設置された。

    中世・近世  モンツァ大聖堂に保管されているロンバルディアの鉄王冠

    568年、アルボイーノ率いるゲルマン人ランゴバルド族が侵入。パヴィーアを首都としてランゴバルド王国を築いた。「ロンバルディア」の地名はランゴバルド族(ロンバルド人)に由来する。773年、フランク王国のカール大帝はランゴバルド王国に宣戦を布告し北イタリアに侵入、774年にはパヴィーアが陥落して王国は滅亡した。アルボイーノ以来ランゴバルドの王たちはイタリア王を称しており、カール大帝も「ロンバルディアの鉄王冠」を手中にしてイタリア王に即位した。以後もパヴィーアは「イタリア王国」の首都と考えられ、12世紀頃まで神聖ローマ皇帝はパヴィーアでイタリア王として戴冠する習わしであった。

    神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立、神聖ローマ帝国(とくにホーエンシュタウフェン朝)が北イタリアに干渉を図るイタリア政策、都市国家(コムーネ)の勃興を背景として、12世紀以降は教皇派と皇帝派の紛争が発生。1162年、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、またはバーバロサ)により、ミラノも破壊された。ミラノやクレモナなど北イタリアの諸都市は1167年、ポンティーダの修道院においてロンバルディア同盟を締結し、皇帝に対抗。1176年、ロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでフリードリヒ1世を破り、皇帝に都市の自治を認めさせた。

    13世紀にはミラノでヴィスコンティ家が台頭、1277年にはオットーネ・ヴィスコンティ(英語版)がシニョーレ(僭主)となった。1395年にはジョヴァンニ・ガレアッツォ・ヴィスコンティがミラノ公になりミラノ公国が成立する。マントヴァでもゴンザーガ家がシニョーレとして地位を固め、1434年にはマントヴァ侯国となる(のちにマントヴァ公国となる)。1425年以後、ミラノ公国とヴェネツィア共和国との間には戦争状態が断続的に続いた(ロンバルディア戦争(英語版))。ミラノでは1450年には傭兵隊長(コンドッティエーレ)出身のフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公となった。1454年、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国などイタリアの五大国はローディの和を結び、都市国家間の戦争に終止符を打った。ミラノ公国とヴェネツィア共和国はアッダ川を境界線と定めた。

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    古代

    古代ローマ時代、ロンバルディアはピエモンテやエミリア=ロマーニャと共にガリア・キサルピナ(ローマから見て「アルプスよりこちら側のガリア」の意)と呼ばれていた。メディオラヌム(現在のミラノ)、ティキヌム(パヴィーア)などの都市は、ローマ人以前にさかのぼる起源を有する。紀元前3世紀頃よりローマ人はこの地を征服。ガリア・キサルピナ属州が置かれていたが、紀元前42年頃、オクタヴィアヌス(のちのアウグストゥス帝)によってイタリア本土に編入された。紀元前27年、アウグストゥスによって第11行政区「トランスパダナ」 (it:Regio XI Transpadana) (首府:メディオラヌム)が設置された。

    中世・近世  モンツァ大聖堂に保管されているロンバルディアの鉄王冠

    568年、アルボイーノ率いるゲルマン人ランゴバルド族が侵入。パヴィーアを首都としてランゴバルド王国を築いた。「ロンバルディア」の地名はランゴバルド族(ロンバルド人)に由来する。773年、フランク王国のカール大帝はランゴバルド王国に宣戦を布告し北イタリアに侵入、774年にはパヴィーアが陥落して王国は滅亡した。アルボイーノ以来ランゴバルドの王たちはイタリア王を称しており、カール大帝も「ロンバルディアの鉄王冠」を手中にしてイタリア王に即位した。以後もパヴィーアは「イタリア王国」の首都と考えられ、12世紀頃まで神聖ローマ皇帝はパヴィーアでイタリア王として戴冠する習わしであった。

    神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立、神聖ローマ帝国(とくにホーエンシュタウフェン朝)が北イタリアに干渉を図るイタリア政策、都市国家(コムーネ)の勃興を背景として、12世紀以降は教皇派と皇帝派の紛争が発生。1162年、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、またはバーバロサ)により、ミラノも破壊された。ミラノやクレモナなど北イタリアの諸都市は1167年、ポンティーダの修道院においてロンバルディア同盟を締結し、皇帝に対抗。1176年、ロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでフリードリヒ1世を破り、皇帝に都市の自治を認めさせた。

    13世紀にはミラノでヴィスコンティ家が台頭、1277年にはオットーネ・ヴィスコンティ(英語版)がシニョーレ(僭主)となった。1395年にはジョヴァンニ・ガレアッツォ・ヴィスコンティがミラノ公になりミラノ公国が成立する。マントヴァでもゴンザーガ家がシニョーレとして地位を固め、1434年にはマントヴァ侯国となる(のちにマントヴァ公国となる)。1425年以後、ミラノ公国とヴェネツィア共和国との間には戦争状態が断続的に続いた(ロンバルディア戦争(英語版))。ミラノでは1450年には傭兵隊長(コンドッティエーレ)出身のフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公となった。1454年、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国などイタリアの五大国はローディの和を結び、都市国家間の戦争に終止符を打った。ミラノ公国とヴェネツィア共和国はアッダ川を境界線と定めた。

    1499年にフランスのルイ12世がミラノ公国の権力抗争に介入して北イタリアに侵攻(第一次イタリア戦争)、スフォルツァ家がミラノから追放される。シャルル8世のイタリア遠征は失敗に終わるが、フランスによるイタリア戦争は16世紀を通して継続的に行われることになる。1535年、ミラノ公国はスペイン王国(スペイン・ハプスブルク朝)に服従、1700年のスペイン・ハプスブルク朝断絶後は、スペイン継承戦争を経てラシュタット条約(1707年)によってオーストリア(オーストリア・ハプスブルク家)がミラノ公国を支配することとなった。

    近代

    1796年、フランス共和国(総裁政府)は、ナポレオン・ボナパルトをイタリア方面軍司令官に任命し、イタリア戦役が開始される。ナポレオンはロディの戦いでオーストリア軍を破ってミラノに入城し、ミラノにはフランスの衛星国・トランスパダーナ共和国が建国された。また、ナポレオンは敗走するオーストリア軍を追ってヴェネツィア共和国領に侵攻、ベルガモ (Republic of Bergamo) やブレシア (Republic of Brescia) 、クレーマ(クレーマ共和国)などに革命政府が成立した。1797年、カンポ・フォルミオ条約によってヴェネツィア共和国は消滅し、その領土はおおむねアディジェ川を境界にフランスとオーストリアで分割された。フランスの勢力圏では、トランスパダーナ共和国などの衛星国が統合されてチザルピーナ共和国が編成された。第二次対仏大同盟を結んだオーストリアは、1799年にロンバルディアを含む北イタリアを一時奪還するが、リュネヴィルの和約(1801年)でチザルピーナ共和国を承認。チザルピーナ共和国はその後、ナポレオンを大統領とするイタリア共和国(1802年 - 1805年)、次いでナポレオンを国王とするイタリア王国(1805年 - 1814年)に移行した(いずれもミラノが首都とされた)。

    1814年のナポレオン失脚後、ウィーン会議の結果として1815年にロンバルディアとヴェネト(旧ヴェネツィア共和国領)にはロンバルド=ヴェネト王国が設立された。ロンバルド=ヴェネト王にはオーストリア皇帝フランツ1世が就き、オーストリア帝国(ハプスブルク君主国)の構成国となった。1848年にはミラノにおいてオーストリアによる支配に対する反乱が発生(ミラノの5日間)、第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版)の契機となった(イタリア統一運動参照)。

    1859年、フランス帝国(フランス第二帝政)と結んだサルデーニャ王国は、オーストリアに対し第二次イタリア独立戦争を挑んだ。ミラノ周辺でのマジェンタの戦い、ソルフェリーノの戦いを経て(なお、ソルフェリーノの戦いは、アンリ・デュナンが赤十字運動を提唱する契機となった)、7月にフランスは単独でオーストリアと休戦(ヴィッラフランカの休戦)。その後11月10日に3か国間でチューリッヒ条約が締結され、ロンバルディアはサルデーニャ王国に併合された(手続きとしては、オーストリアがフランスに割譲したロンバルディアを、即日フランスがサルデーニャに割譲する形になっている)。

    1861年、サルデーニャ王国はイタリア半島を統一し、イタリア王国となった。

    現代

    イタリアの経済・財政を支える豊かな地域である。その分、州からの税収が中央政府を通じて貧しいイタリア南部に流れているとの不満が強い。このため北部同盟の呼び掛けにより2017年10月22日、東隣のヴェネト州とともに自治権拡大を問う住民投票が実施された。約4割の投票率で、自治権拡大への賛成が9割を超えた[1]。

    ^ イタリア北部2州で住民投票、自治権拡大に9割超賛成『日本経済新聞』朝刊2017年10月24日
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