Cappella Sistina

( システィーナ礼拝堂 )

システィーナ礼拝堂(システィーナれいはいどう)、より正確にスィスティーナ礼拝堂(スィスティーナれいはいどう、伊: Cappella Sistina)は、ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂。サン・ピエトロ大聖堂北隣に位置するその建物とともに、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ペルジーノ、ピントゥリッキオら、盛期ルネサンスを代表する芸術家たちが内装に描いた数々の装飾絵画作品で世界的に有名な礼拝堂である。とくにローマ教皇ユリウス2世の注文でミケランジェロが1508年から1512年にかけて描いた天井画と、ローマ教皇クレメンス7世が注文し、ローマ教皇パウルス3世が完成を命じた、1535年から1541年にかけて描いた『最後の審判』はミケランジェロの絵画作品の頂点とされている。

もともとバチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂を1477年から1480年にかけてローマ教皇シクストゥス4世が建て直させた建物で、その教皇名(伊: Sisto IV)にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられた。この建て直し時には、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオらの芸術家たちが、一連の内装フレスコ壁画を手がけている。壁画に描かれているのは『旧約聖書』からの「モーセの生涯の物語」ならびに『新約聖書』からの「キリストの生涯の物語」と、歴代のローマ教皇の肖像画で、これらは1482年から1483年8月にかけて描かれた作品となっている。落成したシスティーナ礼拝堂で最初のミサを執り行ったのはシクストゥス4世だった。このミサは聖母被昇天に捧げられたもので、システィーナ礼拝堂を聖母マリアに奉献することを表明する式典でもあった。

シクストゥス4世以降、システィーナ礼拝堂は宗教的施設とローマ教皇執務室という二つの役割を果たしてきた。現在ではローマ教皇を選出する会議であるコンクラーヴェの会場としても使用されている。

システィーナ礼拝堂はローマ教皇を選出するコンクラーヴェが開催される場所として広く知られている。しかしながら、教皇礼拝堂 (Cappella Pontificia) の一角を構成するシスティーナ礼拝堂は、1968年まで教皇宮殿 (Pontificalis Aula) と呼ばれていた教皇公邸 (Domus Pontificalis) としての性格も持っている。シクストゥス4世が在位していた15世紀後半の教皇礼拝堂には、聖職者、聖座職員、高位の平信徒らおよそ200人の人々が関わっており、年間50件におよぶ式典、行事を執り行うことが定められていた[1]。これらの行事で35件を占めるのがミサで、そのうち8件が通常サン・ピエトロ大聖堂で実施されており、多数の信徒が集まる一大式典だった。クリスマスやイースターのミサには教皇自ら典礼として参加していた。残り27件のミサは比較的小規模で大きな施設を必要としなかったこともあって、システィーナ礼拝堂が完成する以前にはマッジョーレ礼拝堂が使用されていた。

 ローマ教皇シクストゥス4世

ヴァチカン宮殿にはマッジョーレ礼拝堂のほかにも、ローマ教皇と教皇庁職員が日々の祈りを捧げる場所として使用される礼拝堂があり、シクストゥス4世在位時にはニコラウス5世が建てた、フラ・アンジェリコが内部装飾を手がけた礼拝堂が使用されていた。マッジョーレ礼拝堂は少なくとも1368年までは存在していたことが記録として残っている。しかしながら、後年のトラブゾンのアンドレアスとシクストゥス4世とのやりとりには、当時のマッジョーレ礼拝堂は荒廃して壁は傾いており、新しい礼拝堂を建設するために取り壊す必要があることが記されている[2]。

システィーナ礼拝堂はマッジョーレ礼拝堂の跡地に建てられている。シクストゥス4世の命でバッチオ・ポンテッリ (en:Baccio Pontelli) が設計し、ジョヴァンニ・デ・ドリッチの総指揮のもとで1473年から1481年にかけて建設された[3]。現在でもシスティーナ礼拝堂の外観はほぼ建設当時のままである。建物の完成後、盛期ルネサンスを代表する芸術家であるボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノ、ミケランジェロらによるフレスコ画で内部装飾がなされた[2]。

完成後のシスティーナ礼拝堂で最初のミサが執り行われたのは1483年8月9日である。このミサは聖母被昇天に捧げられたもので、システィーナ礼拝堂が聖母マリアに奉献されることを公表する式典でもあった[4]。現在でもシスティーナ礼拝堂はさまざまな式典や行事などに使用されており、ローマ教皇が外遊などで不在の場合を除いて、ローマ教皇庁の公式行事の重要な開催場所である。世界最古の聖歌隊の一つであるシスティーナ礼拝堂聖歌隊 (en:Sistine Chapel Choir) は、ルネサンス期に作曲された合唱曲を現在にそのまま伝えており、なかでもローマ楽派の作曲家グレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』がとくに有名な楽曲となっている[5]。

コンクラーヴェ

システィーナ礼拝堂が持つ最重要機能として、枢機卿団 (en:College of Cardinals) が次代のローマ教皇を選出する会議であるコンクラーヴェの開催場所となっていることがあげられる。コンクラーヴェ開催中にはシスティーナ礼拝堂の屋根に煙突が設置され、そこから排気される煙の色でコンクラーヴェの状況が告知される。投票によって新たなローマ教皇が選出された場合には、投票に使用された用紙が燃やされて白い煙があがる。投票の結果、候補者の最大得票数が全体の三分の二に満たない場合には、投票用紙とともに湿った藁と化学添加剤が燃やされて煙突から黒い煙があがり、次代のローマ教皇は未決定であるということを知らせる[6]。

コンクラーヴェの期間中は枢機卿団は外出が許されず、ミサの出席、食事、就寝など日々の生活はすべて、特に選別された世話係の手を借りてコンクラーヴェ会場内で行わなければならなかった。1455年以降コンクラーヴェはヴァチカン宮殿内で実施されており、教皇が複数鼎立した教会大分裂まではドミニコ会教会堂のサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会がコンクラーヴェの開催場所となっていた[7]。

ヨハネ・パウロ2世が1996年に発布した『使徒憲章』「使徒座空位とローマ教皇選出について」(en:Universi Dominici Gregis) で、コンクラーヴェ期間中の枢機卿の宿舎はコンクラーヴェ会場のシスティーナ礼拝堂ではなくドムス・サンクテ・マルテ(聖マルタの家 (en:Domus Sanctae Marthae))とするように変更されたが、ローマ教皇選出の投票自体は従前どおりシスティーナ礼拝堂で実施するよう定められている[8]。

^ Pietrangeli 1986, p. 24 ^ a b John Shearman, "The Chapel of Sixtus IV". In Pietrangeli 1986 ^ Ekelund, Hébert & Tollison 2006, p. 313 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Pietrangeli1986」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Stevens, Abel & Floy, James. "Allegri's Miserere". The National Magazine, Carlton & Phillip, 1854. 531. ^ Saunders, Fr. William P. "The Path to the Papacy". Arlington Catholic Herald, 17 March 2005. Retrieved on 2 June 2008. ^ Chambers, D. S. (1978), “Papal Conclaves and Prophetic Mystery in the Sistine Chapel”, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes (The Warburg Institute) 41: 322–326, doi:10.2307/750878, JSTOR 750878, https://jstor.org/stable/750878.  ^ Domus Sanctae Marthae & The New Urns Used in the Election of the Pope from EWTN
写真提供者:
Statistics: Position
141
Statistics: Rank
373719

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
924378165このシーケンスをクリックまたはタップします: 1527

Google street view

どこの近くで寝れますか システィーナ礼拝堂 ?

Booking.com
490.496 総訪問数, 9.203 興味がある点, 404 保存先, 64 今日の訪問.