端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にある島。通称は軍艦島(ぐんかんじま)。「羽島」とも書いていた。

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年(昭和49年)の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島である。

2015年(平成27年)、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された。

端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)、第三期・産業報国期(1914 - 1945年)、第四期・復興と近代化期(1945 - 1964年)、第五期・石炭衰退と閉山期(1964 - 1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 - )に分けられる[1]。

第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[2]。『天保国絵図』にも「端島」とある[3]。

端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)[4][5][6]が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[7]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[7]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[7][2]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[2]。

 端島(軍艦島)の埋立の歴史

このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[4]。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に追い込まれた[8]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[8]。

第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)  明治後期の端島

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[9]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[10]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した(1897年)[10]。この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)[11]、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。

1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった[12]。納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。

三菱端島労働状況(1907(M40)3〜8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37〜S39

坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。[13]
第三期・産業報国期(1914 - 1945年)  長崎で建造された戦艦「土佐」 『東亞日報』1922年6月8日「長崎付近の朝鮮村」

納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[14]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[14][5]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。

RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であった。例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。一方で、後に建設された坑外夫向けの16号 - 20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた[15]。

 昭和初期の端島

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていた[15]。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」[16]との言葉がある。

1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される[15]。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された[17]。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという[17]。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した[18][19]。彼らの証言については、『軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録』(社会評論社。2011年、2016年増補改訂版)にも記されている。

1935年(昭和10年)3月26日午後10時頃、第一坑でガス爆発事故が発生。翌27日午後4時までに大小10回の爆発事故が続いたことから救出活動を途中で断念。注水による消火活動が行われた。死者17人、重軽傷者17人[20]。 さらに1939年(昭和12年)にも坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出した[21]。

戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[22](端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる[23]。事故による死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などだが、日本人の場合は家族で住んでいる者も多かったため、高齢者や衛生状態の悪かった当時の日本のことで幼少者の病死もそれなりにあったのではないかと考えられる。死者が出た他にも、徴兵あるいはケガで働けなくなった等の理由による離島で、補充や入れ替わりがあった可能性も考えれば、どれほど参考となる数字かは疑問だが、1940年の端島の推定人口が3,333人なので単純計算ならばその40%近い死者が出た計算となる。

1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった[24]。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残る。

第四期・復興と近代化期(1945 - 1964年)  労働者に給与として「日本円」の代わりに支払われた、端島の「炭鉱札」(1961年発行)(福岡大学図書館所蔵)。現金を支払わないことで、会社の運転資金の節約と、労働者の移動(「島抜け」「ケツワリ」「ヤマカエ」)を制約する役割がある[25]。1916年施行の工場法で禁止されたが、現実には1960年代まで行われた

終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にGHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。

この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され[21]、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。特に1955年の海底水道開通[11]で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。

しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された[26]。住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており[27]、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった(1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所)。

また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった[28]。

人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[29]。炭鉱施設・住宅のほか、高浜村役場端島支所(1947年 - 1955年)→高島町端島支所(1955年 - )[21]・小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた[30])・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された[31]。

1951年には坑内でガス突出事故が発生している[21]。

第五期・石炭衰退と閉山期(1964 - 1974年)

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小される[32]。これ以降人口が急速に減少する。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。この時期の端島の住民にアンケート調査を行った長崎造船大学の片寄俊秀によると、住民の充足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評される[33]。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1970年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表[33]。その後数百万トンの石炭を残したまま[34]1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京らの離島をもって、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた[35]。

片寄俊秀は、「職住近接」「シビル・ミニマム充足」「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期の端島を「理想郷」とも評しているが、最終的に鉱山は閉山となり、少しの退職金を手に全国に散らばった老齢の元坑員の再就職の苦労という現実も取材していることから、「端島において外見的に実現していた『理想郷』そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか」と、一方でやや批判的な見方もしている[33]。いずれにせよ、同時期の殺伐とした本土とは全くかけ離れた社会であるこの時期の端島も、日本の一部であり、日本の一つの尺度とみている。

(動画) 端島の姿(2016年撮影)第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 - )  端島の北東側(2006年撮影) 俯瞰(2008年撮影) ドルフィン桟橋から端島に上陸する観光客(上陸解禁2日目の2009年4月23日) 全景

閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていたが、島全体が三菱の私有地であり部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付くのはともかく、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得なかった[36]。

また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかった。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活と言う「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号-7月号)に掲載された(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至る[37]。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、端島の建築には鉱山の技術が使われていることなど、建築の方面からも光が当てられた。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた。奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としている[23]。

世界遺産の登録運動 (2000年代以降)

2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る[38]。無人化以来、建物の崩壊が進んでいる[39]。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された[40][41]。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された[42][43]。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止[44])。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸した[45]。その後も、半年間で34,445人[46]、1年間で59,000人[47]、3年間で275,000人[48]と好調である。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる[45]。軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上る[48]。

一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり[49]、2009年(平成21年)1月に記載された。 軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会にて秋野公造参議院議員が未だ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑[50]を行い、国が必要な予算の確保に努める意向を示したことで[51]、2014年1月に長崎市は文化財指定に向けて意見具申を行い、2014年6月20日に文化審議会が軍艦島(=端島炭鉱跡)を含む三つの炭坑跡で構成される「高島炭鉱跡」を史跡に指定するよう文部科学大臣に答申して、2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確になった[52]。しかし、2015年3月31日に韓国政府が端島の世界遺産登録に反対を表明し[53]、朴槿恵元大統領、尹炳世外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコ、国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに端島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行っていたため[54]、日韓の外交問題となっていた。

長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む島内全域を撮影した端島のGoogle ストリートビューが、2013年6月28日に公開された[55]。

長崎大学インフラ長寿命化センターは2009年度より軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3Dレーザースキャナー・全方位カメラ・無人航空機(ドローン)、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化を行った[56][57] 。

人口の推移 端島の人口の推移[58] 1920年(大正9年)       3,271 国勢調査による推計人口 1925年(大正14年)      2,750 1930年(昭和5年)      3,290 1935年(昭和10年)       3,231 1940年(昭和15年)        3,333 1945年(昭和20年)     1,656     4,022 高島町端島支所による人口 1950年(昭和25年)     4,600 1955年(昭和30年)        4,738 1960年(昭和35年)       5,151 1965年(昭和40年)      3,391 1970年(昭和45年)    1973年(昭和48年)     2,150 1975年(昭和50年) 0 行政区域の変遷

江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していた[2][59]。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、1773年(安永2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていない[7]。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となる。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入され西彼杵郡高島町端島となった。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、長崎市高島町字端島[44][60]となる。

^ NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫 『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』創元社、2015年、ISBN: 978-4422700991、7頁 ^ a b c d 平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系43 長崎県の地名』 平凡社、2001年、ISBN 9784582490435、250-251頁。 ^ 天保国絵図 肥前図 - 国立公文書館デジタルギャラリー ^ a b 『軍艦島の遺産』34頁。 ^ a b 『軍艦島実測調査資料集 追補版』625頁。 ^ 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、1984年、700-701頁。 ^ a b c d 三和町 『三和町郷土史』 三和町、1986年、250-257頁。 ^ a b 『軍艦島の遺産』34-35頁。 ^ 『軍艦島の遺産』35頁。 ^ a b 『軍艦島の遺産』36頁。 ^ a b 『軍艦島の生活』119頁 ^ 長崎県評『長崎県同労運動史年表』、1972年 ^ 『『軍艦島の生活』123頁 ^ a b 『軍艦島の遺産』40-42頁。 ^ a b c 『軍艦島の生活』126頁 ^ 『軍艦島の生活』105頁 ^ a b 片寄俊秀「軍艦島の生活環境」 ^ 「中国人強制連行訴訟 長崎地裁も賠償認めず 不法行為は認定」読売新聞 2007年3月27日 西部夕刊 1面。 ^ 「強制連行、長崎も賠償認めず 地裁判決、時間の壁を理由に」朝日新聞 2007年3月27日 西部夕刊 11面。 ^ 死者・行方不明は十七人、端島坑でガス爆発『大阪毎日新聞』昭和10年3月28日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p517 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ a b c d 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「769p」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 『軍艦島の遺産』51頁。 ^ a b 『軍艦島の生活』154頁 ^ 『軍艦島の遺産』52-55頁。 ^ 炭鉱札とは - 福岡大学図書館 ^ 『軍艦島の生活』130頁 ^ 『軍艦島の生活』109頁 ^ 『軍艦島の生活』128頁 ^ 『軍艦島の遺産』61-62頁。 ^ 『軍艦島の遺産』83頁。 ^ 『軍艦島の遺産』81頁。 ^ 角川日本地名大辞典 42 長崎県(1987年7月8日発行)770ページ ^ a b c 『軍艦島の生活』131頁 ^ 「軍艦島あす閉山 エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して」朝日新聞 1974年1月14日 東京朝刊 3面。 ^ 『軍艦島の遺産』172頁。 ^ 『『軍艦島の生活』151頁 ^ 『『軍艦島の生活』153頁 ^ 「[アングル]軍艦島再び脚光 炭鉱遺産-廃虚ブーム」『読売新聞西部本社版』2002年9月27日付夕刊、3面。 ^ 長崎沖の軍艦島、35年ぶり上陸解禁 元島民ら一歩 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年4月23日付 ^ 「“軍艦島”町に譲渡 長崎・高島 観光活用へ」『読売新聞西部本社版』2001年11月23日付朝刊、34面。 ^ 「炭鉱跡、産業遺産で再出発 長崎・高島町が『軍艦島』取得」『朝日新聞西部本社版』2001年11月26日付朝刊、31面。 ^ 「軍艦島の姿、2005年夏 長崎市の無人島・端島」『朝日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。 ^ 「軍艦島:公開 炭鉱閉山、無人31年-長崎」『毎日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。 ^ a b 端島への立ち入りの制限に関する条例(平成20年長崎市条例第44号) ^ a b 軍艦島 上陸解禁から1か月、来島者の9割「満足」 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年5月24日付 ^ 上陸解禁から半年 軍艦島観光 上げ潮 来島者 年間予測大きく突破 若者多く、波及効果小粒? - 西日本新聞朝刊 2009/10/23付 ^ “廃虚・軍艦島に5万9000人上陸…解禁1年”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月23日). https://web.archive.org/web/20100429190606/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100422-OYT1T00699.htm 2010年4月23日閲覧。  ^ a b “軍艦島人気、全国区に”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年6月13日). http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20120613-OYS8T00833.htm 2012年10月5日閲覧。  ^ 「九州・山口の近代化産業遺産群が世界遺産暫定リスト入り 軍艦島など本県4カ所」長崎新聞、2008年9月27日。 ^ 参議院会議録情報第185回国会内閣委員会第2号 ^ [1]西日本新聞、軍艦島保全 国が支援へ 2013年11月6日 ^ [2]西日本新聞、軍艦島 国史跡へ 2014年6月1日 ^ 中央日報 2015年03月31日 韓国政府、日帝強要地の世界遺産登録反対の立場を強く表明[3] ^ 中央日報 2015年05月21日 朴大統領「日帝徴用施設を世界遺産登録すれば分裂招く」[4] ^ “Google Japan Blog: "軍艦島”をストリートビューで歩いてみよう”. Google Japan (2013年6月28日). 2013年7月19日閲覧。 ^ “軍艦島を三次元データに”. 長崎新聞. (2013年12月7日). http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2013/12/07091942012048.shtml 2013年12月7日閲覧。  ^ インフラ長寿命化センター軍艦島3Dプロジェクト平成27年8月3日閲覧 ^ 『軍艦島実測調査資料集 追補版』566頁。 ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 『角川日本地名大辞典42 長崎県』 角川書店、1987年、ISBN 9784040014203、769-770頁。 ^ 高島行政センター:合併に伴うお知らせ
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