ヒンドゥー教

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のコンテキスト ヒンドゥー教

ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンドゥーイズム、英: Hinduism、ヒンディー語: हिन्दू धर्म、サンスクリット語: सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。

詳細について ヒンドゥー教

履歴
  • ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている[1]。

    インダス文明時代

    インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性器を示す絵が見られる[2]。しかしインダス文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。

    ヴェーダ  リグ・ヴェーダ

    ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する[3]。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている[3]。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部のパンジャブ地方でアーリヤ人によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義にはサンヒターのみを指す。

    サンヒター(本集) 『リグ・ヴェーダ』(賛歌) 『サーマ・ヴェーダ』(歌詠) 『ヤジュル・ヴェーダ』(祭詞) 『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪詞) ブラーフマナ(祭儀書) アーラニヤカ(森林書) ウパニシャッド(奥義書)

    リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである[4]。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、アグニ(火の神)、ヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。

    『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった[5]。

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    ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている[1]。

    インダス文明時代

    インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性器を示す絵が見られる[2]。しかしインダス文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。

    ヴェーダ  リグ・ヴェーダ

    ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する[3]。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている[3]。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部のパンジャブ地方でアーリヤ人によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義にはサンヒターのみを指す。

    サンヒター(本集) 『リグ・ヴェーダ』(賛歌) 『サーマ・ヴェーダ』(歌詠) 『ヤジュル・ヴェーダ』(祭詞) 『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪詞) ブラーフマナ(祭儀書) アーラニヤカ(森林書) ウパニシャッド(奥義書)

    リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである[4]。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、アグニ(火の神)、ヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。

    『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった[5]。

    現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡ることができる[6]。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である[7]。なおヴェーダに登場するヴィシュヴァカルマン神(造物や工巧の神)は、現在でも物造りの神様として、インドの各工場で祀られている。現在この神の祭りは毎年9月17日に行われている。

    バラモン教からヒンドゥー教へ

    バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。

    更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。

    ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。

    紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。

    また東南アジアの「インド化」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる[8]。以降、島嶼部では古マタラム王国やマジャパヒト王国など、大陸部では扶南国などで栄えた。アンコール朝では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた[9]。

    六派哲学

    バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた[10]。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない[11]。

    ヴァイシェーシカ学派 - 多数の実在を認め、物質を無数の原子からなるものと規定した。 ニヤーヤ学派 - 実在を認めつつ、主宰神「シヴァ神」の証明を試みた。 サーンキヤ学派 - 世界は精神と物質から成るとした二元論を展開した。純粋精神が物質から離れた時に「解脱」が達成されるとし、最高神の存在を認めない。 ヨーガ学派 - 教説のかなりの部分をサーンキヤ学派と共有するが、最高神の存在を信じる。「解脱」の手段としてのヨーガの行法を発達させた。 ミーマーンサー学派 - ヴェーダの「供犠」を受け継ぎ、正しい祭祀が(神を通さず)直接果報をもたらすものとした。 ヴェーダーンタ学派 - 根本聖典『ブラフマ・スートラ』に則り梵我一如を追求した。この学派がその後のヒンドゥー教の正統派の地位を継続している。 不二一元論とバクティ

    ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに不二一元論がある。これは、精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「シャンカラ・アーチャーリヤ」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者ラーマーヌジャによる被制限者不二一元論、13世紀の神学者マドヴァ(英語版)の二元論へと発展していった[12]。現代インドのパンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる[13]。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい[13]。

    5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている[14]。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。

    その後のヒンドゥー教  カジュラーホーのヴィシュヴァナータ寺院(1002年頃)シヴァ神を祀る。寺院の壁面には多数の彫刻が浮き彫りされている

    その後北インドではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。

    インドがイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指すヒンドゥー教改革運動(英語版)が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、植民地時代のインド(英語版)で民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた[15][16]。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、神智学協会のアニー・ベサントのような外国人もいた[17]。

    のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス(英語版)」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである[12]。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、ユニテリアン主義の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた[12]。ローイの兄の妻はサティー(寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ[18]、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、輪廻といった概念を迷信として、キリスト教の改革運動をモデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。

    ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴール(英語版)ケーシャブ・チャンドラ・セーン(英語版)に引き継がれた。プラーナやタントラを否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった[12]。

    1875年にローイの影響を受けたダヤーナンダ・サラスワティー(英語版)は、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させたアーリヤ・サマージ(アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した[12]。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している[16]。

    また、ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、転生(輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想を説いた[19]。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長のアニー・ベサントは国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした[19]。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある[19]。

    一方で、バクティ運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであったラーマクリシュナは、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした[20]。彼の信仰はカーリー女神へのバクティを中核とし、タントラ的な性格を持つが[21]、イスラム神秘主義やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』[22]と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた[20]。弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教は普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた万国宗教会議(英語版)に参加してヒンドゥー教を世界宗教のひとつとして認めさせることに貢献し[12]、1895年にはラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションを創設し、世界にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタ(英語版)を布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。

    ^ 『インドを知る事典』27頁 ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』73頁 ^ a b 川崎 1997, p. 29. ^ 川崎 1997, pp. 30–31. ^ 『インドを知る事典』34頁 ^ 『インドを知る事典』36頁 ^ 『インドを知る事典』30頁 ^ 青山亨「ベンガル湾を渡った古典インド文明」『南アジア研究』2010年 2010巻 22号 p.261-276, doi:10.11384/jjasas.2010.261 ^ 石澤良昭「アンコール王朝史の新局面」『東南アジア -歴史と文化-』2002年 2002巻 31号 p.3-26, doi:10.5512/sea.2002.3 ^ 『インドを知る事典』41頁 ^ 川崎 1997, p. 98. ^ a b c d e f ギャヴィン・フラッド ジョン・ボウカー(編)「インドの諸宗教とヒンドゥー教」松村一男監訳『ヴィジュアル版 ケンブリッジ 世界宗教百科』(原書房 2006年 ISBN 4562040343 )pp.45,50-51. ^ a b 前田 1967, p. 250. ^ 『インドを知る事典』43-45頁 ^ 斎藤 1982, p. 32. ^ a b 斎藤 1982, p. 40. ^ 斎藤 1982, pp. 31–32. ^ 斎藤 1982, p. 43. ^ a b c 増原 1967, pp. 340–341. ^ a b セーン 1999, pp. 174–175. ^ 臼田 2000, pp. 207–208. ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』375頁
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